おはようございます。
体調いかがですか?
僕は、カラダの方は慢性疲労?っぽいものに少し引っ張られている感じがするのですが、気持ちはとても晴れやかです。
すこしずつ、コツコツ癒していこうと思ってます。
さて、いま近所の波止場で”オーツミルクラテ”を飲みながら好きなチルアウト系の音楽を聴きつつボーッとしています。
あまりに心地よくて、ちょっと眠たくなってきました(いや、それはダメなのよ!)。
高松行きの船を待っていて、その船が来るまで海を眺めながらひと仕事する予定です。
天気がいい日に港で過ごす心地よさ。
天気が良くないときでも心地よい港の不思議さ。
港で過ごす時間は、僕にとってはとても贅沢です。
僕は以前、贅沢なことをしているとどこか「背徳感」のようなものを感じることがあり、今もまだまだこの感覚は残っているのですが、でもそれと同時に、遠慮せずにこの贅沢で”幸せな時間”の深みにもっと触れていきたいと思えるようになりました。
いつからか、「何か」を目指している途中で時々おとづれる”幸せな時間”を過ごしたりしていると、”誰か”に「祝福」されているような感覚を憶えるようになって、その感覚を知ってからというもの、よくわからない「背徳感」のようなものが心の中にある錆びついた扉から少しずつ剥がれて行っています。
今でも油断すると「錆びついた感覚」に振り回されることもしょっちゅうですし、”完全な治癒”などには程遠いですし、きっとそれは今生の人生で目指すべきことでもありません。
でも、それでも色んな人や色んな物、色んな風景と助け合いながら、すこしずつお互いの「魂を癒す旅」のようなものを進めていくことには意味があると信じています。
そして、すこしずつ歩みを進める過程を共に分かち合えるのが、とても嬉しい。
これからも、この旅をたのしんで行きたいです。
ところで、この春は北海道で過ごしてライラックが咲くのを楽しみに待っていようと思っていたのですが、色々あって早々に北海道ライフを切り上げて四国まで降りて来ることになりました。
”色々”といっても話を端折ってまとめて語れば理由は単純で、遅ればせながら途中で気づいたのですが、ぼくはどうやら冬の北海道がカラダにあってないみたいなのです。
「季節性感情障害」という冬になるとうつっぽくなるビョーキがあるらしく、僕はどうやらこのビョーキに当てはまるそうなのです。
このビョーキが医学的に?どれほど正確なものなのかどうかわからないし、勝手な「自己診断」は当てにならないと思うので何とも言えないのですが、一旦そういうのを棚に上げてみると、僕はこのビョーキに当てはまっていました。
僕は「気分の波」が激しいタイプなのですが、それを乗りこなす術(鎮めることも含めて)はそれなりに心得ていて、それで周囲の人に迷惑をかけたりすることはほとんどないと、自分では思っている(けれど、一部の人には負担をかけてしまっている。ので、頭が上がらない)のですが、それを乗りこなすためにはやはり「環境整備」が大事で、環境を整えないと「セルフコントロール」もへったくれもないのです。
というより、環境を整えることも「セルフコントロール」のひとつであり、自分自身(内)と環境(外)の相互作用を整えることが僕にとっての「セルフコントロール」なのです。
「内」と「外」の”対話”がうまくいっているかが、僕にとっての「自己管理」のバロメーターなのです。
その”対話”がうまくいっているときは、自分に似た「気分の波」が激しいタイプの人?とのあいだに「創造的な関係」が成り立つような気がしています。
お互いの「波」を打ち消し合ったり、「新しい波」を生み出したり、そういうことができているような感覚を持てることがあります。
そういうことに気づいてから、僕は「自己管理」というものの楽しさを知り始めました。
いずれにせよ、寒さの厳しいところ(日光量の少ない所)で過ごすのはあまり向いてないようです。
北海道の冬景色が好きだし、貴方もご存じの通り、冬の北海道につよい思い入れがあるので、ちょっと寂しい気持ちになりました。
まぁでも合ってないものは合ってないからしょうがないし、気持ちを切り替えました。
それに、すこし滞在するぐらいなら全然問題ないので、冬の北海道にもそのうちまた行こうと思ってます。
だいたい、あの素晴らしい風景を諦めるなんて無理なんですよね。
ともあれ、基本的に大事なのは「自分に合った場所」で過ごすことで、僕は”日光”をしっかり浴びて生活しないと元気になれないようです。
結局、体調が整ってないと仕事にしろ遊びにしろ人間関係にしろ全部楽しくなくなるので、「場所選び」や「体調管理」は、やっぱりとても大事だと改めて思いました。
それから最近自分で不思議に思うのですが、「北海道が好き!」なんて言いながら、まだ夏の北海道に行ったことがありません。
もったいないことをしていますね。
行きたい場所には、行けるときに行くに限ります。
それがたぶん、人生を楽しむコツでもあるのだと思います。
今年は、暖かくなった北海道にもどって夏を彩るつもりです。
それでは、今日は瀬戸内海の片隅に浮かぶ小さな島の波止場から、貴方と僕の健康無事を祈ります。
陽の光に照らされる穏やかな波に想いを込め、心地良い春の訪れを願って。
何かが僕らを繋げて
この星で小さな出会い生まれて
過ごす 君との日々の中に
光輝きだした 夢の形
僕らにしかつくれない
そして僕らでしか進めない未来へ
ここで今 出会えた意味を
探し拾い集めよう君と
『君とつくる未来』 ケツメイシ
船で瀬戸内海を渡ったあと、高松の街をぶらぶら歩いていた。
途中、高松市役所のまえの公園でひと休みした。
ベンチにすわって”米粉のあんぱん”をかじっていた。
あんぱんを食べながら空をみてボーッとしていると、きのう職場のテーブルのうえに置いてあった一輪挿しのラナンキュラスの残像が脳内に浮かんだ。
ラナンキュラスの残像がしばらくずっと脳内に居座っていた。
空を眺めているときに去来する心象。
晴れやかな面影。
「IT社会デザイン」
言葉ばかりが先行して、わけがわからないまま進んでいく。
そういう現象を前にして、たじろいながらモヤモヤしてわけもわからず彷徨ってる。
今も昔も変わってない。
流行り言葉や決まり文句を前にすると、戸惑ってしまう。
大学生の頃も同じだった。
ひとりで「IT社会デザイン」という意味不明な言葉の「そもそも」の意味について考え込んでしまった。
ひとりで立ち止まって考えていると、言葉の”根っこ”にあるものがチラチラと見えてくることがある。
それが見えてきたときの喜び。
それが見えてきたときの楽しさ。
それを知ると、だんだんその言葉に愛着がわいてくる。
そもそも「IT」ってなんだ?
Information Technology
情報技術。
技術は一旦さておき、情報ってなんなのだろう?
当時、かなり疑問に思った。
疑問におもって、それを探求することになった。
探求の結果、すこしだけわかったことがある。
ただ、それを説明するのはなかなか難しい。
そもそも自分が何をどこまで理解しているのかもよくわかってない。
というか、そもそもこれはかなりの難問であり、「情報の正体」というものはいまだによくわかってないらしい。
迷宮なのだ。
しかし、いくつかの重要なことはすでに偉大な先人たちが案内してくれていて、「スタートライン」のようなものは見えてきた。
毎度お馴染みセイゴオさん(松岡正剛さん。敬意を込めて敬称略)のご案内が素晴らしかった。
コロナパンデミックのときにセイゴオさんの情報についての動画を観て以来何度もこの動画を観ているのだけど、これがとにかくすごい。
この動画の中でセイゴオさんが「これからは”情報”の中に”自己”を入れて編集しなきゃいけない」と言っていて、全然よくわってないのに、これは僕の仕事でもあると思った。
「自己は非自己がないと自己にならない」と言っているのを聴いて、ピンとくるものがあった。
よくわからないけど、ここに「あたらしい世界」があると思った。
情報の正体はよくわからないけど、情報に関わるいくつかの重要なことはわかってきた。
ひとつには、情報はそもそもの”始まり”から、「対的な構造」を持っているということ。
それは言い換えると、そもそもの始めから「関係」がベースということでもある。
情報は、始めからひとりじゃなかったのだ。
それから、情報はやたらと傷つきやすくできている。
とても精細で、次々に枝分かれしていく。
枝分かれしていくような構造を、そもそもの始めから持っている。
しかし、ただ単に枝分かれしていくのではなく、情報が持っている「そもそもの構造」のようなものを保存して行く方向に枝分かれしていく。
変化しながら、その「変化のパターン」を保存していくのだ。
変化しながら”模様”を織り成し、何かの絵を描いていくように。
変わっていくのに、変わらない何かを感じさせるもの。
変わらない何かを感じさせるのに、変わっていくもの。
情報が持つ、複雑な事情。
この複雑な事情を尋ね歩くのが、とても楽しい。