(11) 変化

  

 

 

今日は7月3日です。

波の日ですね。

 

この語呂合わせの記念日はどこかの企業が勝手につくったようで、きっとマーケティングか何かのためなんでしょう。

それが”作られた理由”はなんでもいいのですが、今日が「波の日」だと思うと楽しい気分になります(気分が乗ってくる!)。

いつもより楽しい気分になっている理由がひとつあって、それはこの「波の日」に『君たちはどう生きるか』のDVDが発売になっていたことです。

”ノリノリの気分”と言うと大袈裟なのですが、心地よい海風に吹かれながらさざめく波を眺めるような気持ちで、Amazonの予約ボタンをポチッと押しました。

 

ところで、先週末、「Karuizawa Commongrounds」というところに行きました。

そこにある本屋さんがとても素敵な場所でして、置いてある本も空間そのものも素晴らしく、たっぷり時間をつかって思索に耽りました。

本棚を巡りながら目に留まったジェフリー・バワの建築についての本をパラパラめくったり、目の前で”草花”が靡くテラス席で「これからどう生きるか」を考えたりしていると、なんとなく「スリランカ」という言葉でその時に抱えていた印象がまとまるような気がしました。

テーラワーダブッディズム、アーユルヴェーダ、ジェフリー・バワ、アーサー・クラーク。

スリランカについて特別に詳しく知っているわけではないのですが、この国で生まれた文化に強く影響を受けています。

ただ、それは直接的な影響ではなく間接的な影響で、ちょっとややこしい言い方になるのですが、「自分が影響を受けた人が影響を受けたもの」としてのスリランカに影響を受けています。

「いのち」というものを考えるとき、いつもそれらの影響の源泉としての「スリランカ」が脳裏をよぎります。肌に夏の風が触れるように、脳裏をよぎります。

 

僕が影響を受けたいと思ったその方は、その方と永く付き合っていくことで「個」というものを超えた”深い意味”に共に向き合っていけるような感覚を持てる方で、だから、その方が影響を受けたものに触れることで”深い意味”に触れられるんじゃないかと思い、影響の源泉を辿るように学ばせていただいています。

この方に限らず、僕が永く付き合いたいと思う方々はそういう”深い意味”を感じさせてくれて、そこに共に向かっていきたいと思わせてくれます。

その有り難みを忘れずに、精一杯学んでいきたい。

改めて、そう強く思います。

 

長くなりました。

では、今日も本ブログをどうぞご自由にお楽しみくださいませ。

心地よい風の吹く軽井沢から、今日も僕と貴方の幸運を願っています。

 

 

 

今 ほんとの声を聴き合えたなら

やっと僕らは 夜明けの星座

ただ君がいて ただ僕がいて

ここにしかない 意味になっていく

君と朝日を 迎えに行くよ

 

夜明けの君へ』 TOMOO 

 

 

 

自分の最も醜い部分を克服したいと思って、消防を志したような所があった。

 

いつもクヨクヨしている。いつもイライラしている。どうして自分はこんなに弱いんだろう。

そんな風に自分のことを思ってしまう人はきっとたくさんいるはずで、私もその一人だった。

いや、「その一人だった」というのはちがう。

やっぱり今でもその一人だ。

 

「いざという時に逃げない男になりたい」

そう強く思っていた頃、ある作家に出会った。

その作家が駆け出しの頃のブログで、「もし自分が死んだ後に化石として発見されるなら、誰かが瓦礫の下敷きになるのを庇って身を犠牲にした姿で発見されたい。そんな風に人を守る姿で発見されたい」というようなことを書いていた。

正確には”言葉が違う”のだけど、私の中ではそういうふうに「変換」されていた。

そういうふうに「変換」して受け取っていた。

 

高校生の頃の私は自分自身のことを、いざという時に逃げるタイプの人間だと思っていた。

いざという時がきたら、誰かを助けるよりも、自分が生き延びることを絶対に選ぶと思った。

冷静に自分を見つめて、そう思った。

自分の根底にあるのは、我先に逃げることを考えて、自分のためだけに生きる”衝動”だと思った。

 

私だけではなく、ほぼ全ての人がそうだと思っていた。

人間の根源にあるのは”ともかく生き残ろうする意思”で、自分が生き残るためなら手段を選ばないような貪欲な衝動で、いざとなったら誰しも他人を押し除けてでも自分が生き残るためだけに行動する。

それが事実だし、それが当たり前だし、それを受け入れて生きていくのが普通だと思った。

それが普通だと思ったと同時に、それがどうしても嫌だった。

 

どうしても嫌だけど、どうしてもそういう部分が”消える”とは思えなくて、受け入れることも諦めることもできずに、それでもどうにかしたいと思い、迷いながら生きていた。

その「迷い」を糧にして思索と行動を続けていると、もしかしたらここに「答え」があるんじゃないかと思えるようなものにたくさん出会えた。

 

とはいえ、もちろんそこに「答え」があるわけではなかった。

そもそもそれは「答え」のない問いだから。

 

ただ、その出会いの中で学んだことは、無理にではあれ、まとめるはできる。

現時点で無理にまとめるとするなら、こうなる。

 

それは、「人間の真価は”変化”にこそ存在し、その”変化”は自分以外の”誰か”のためにある」ということだ。

 

自分の中にどうしようもなく醜い部分があっても、それを乗り越えることはできる。

醜い部分が完全には消えなくても、それを超えていくようなものを「創造」することで、それを乗り越えることができる。

 

「どんな時代も変化し続けるものだけが生き残る」というけれど、きっとこの言葉の本当の意味は、「どんな時代も自分以外の誰かのために変化し続けるものだけが生き残る」ということだと私は思う。

 

 

 

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