今日は7月7日です。
七夕ですね。
七夕といえば、天の川を渡って逢瀬を交わす織姫と彦星の話が有名ですが、元ネタは中国の四書五経の一つである『詩経』の中にあるみたいです。
僕はこの話を知らなかったのですが、調べてみると面白い発見がありました。
簡単に話をまとめてみますね。
神の娘である機織りに秀でた「織女」という少女がいて、その少女は神様の着物を織るのが仕事だったらしいのです。
そして、「織女」がいる場所から天の川を挟んだ対岸に牛飼いの「牽牛」という青年がいて、その青年は恋人もつくらずいつも真面目に働いていて、その姿をみた神様が「牽牛」と「織女」を引き合わせたのです。
神様の引き合わせで結ばれた「牽牛」と「織女」でしたが、二人は結ばれた後にろくに仕事をせずに遊び呆けてしまい、それを見かねた神様が二人をまた対岸に引き離し、一年に一度、7月7日にだけ再会することを許しました。
そういう話みたいです。
この話が日本に入ってきて「牽牛」は「彦星」になり、「織女」は「織姫」になったのでしょう。
この話を知ったあと、「織姫に会えなくなるのは嫌だ…」と思った僕は(なんで?)、「真面目に働こう」と”不実な気持ち”を抱きました(なんで?)。
”不実な気持ち”を抱いたのと同時に、僕の「変な癖」の出所がわかったような感覚になりました。
変な感覚ですが、「”衣服”に聖なるものを感じる」という僕の「変な癖」は、七夕伝説と重なるところがあると感じました。
前にもこのブログで話した通り、「”衣服”に聖なるものを感じる」という「変な癖」を僕は持っていまして、男性の装いにも女性の装いにも聖なるものを感じる瞬間があるのですが、特に女性に関しては、その姿に「織姫」の”面影”を見出しているのかもしれないと思ったのです。
そうです、織姫が織物(衣服)の神様だからです(!)。
「衣服に聖なるものを感じる」と言っても、僕は服そのものが好きなわけではなく、たとえば自分の着る服にはそれほど関心がありません。
自分の服にはそれほど関心がないのですが、特定の誰かが特定の服を着ているときなど、それが「似合っている」というとちょっと違うのですが、”内なる「現れ」が外なる「表し」に変わる”というか、その人の「魂の表現」とでも言うべきものを感じることがあります。
そういうものが表れている瞬間のことを思い出すと、「織姫を想う彦星の気持ちってこういうことなのかなぁ」と思ったりします(これは話を盛りました)。
でも、ともかく”装い”も含めた「人の姿」に神々しいものを感じる瞬間があるのです。
「着飾ること」は「本当の自分」からかけ離れる行為だとして批判的な文脈で語られることがありますが、僕はそれに同意する部分もありつつも、完全に共感することはできません。
「装い」には、本来的な「らしさ」を表現する働きがあると思っているからです。
ともかく、すこし大袈裟ですが、僕は七夕伝説に「衣服哲学」ならぬ「衣服神話」のようなものを感じました。
また、七夕伝説が長く語り継がれるのは、この伝説が単なる「天空の話」ではなく、また単なる「地上の話」でもなく、「地上と天の時の移ろいを結んだ話」であるからだと思いました。
天と地をつなぐ物語に、人は惹きつけられるんだと思います。
長くなりました。
神話や伝承について考えると、どこまでも想像力が伸びていきます。
やっぱり、神話や伝承は面白いです。
では、今日は空の彼方の天の川に願いを込め、幸福を祈ります。
貴方の想いが、僕の想いが、実を結びますように。
なぜめぐり逢うのかを 私たちはなにも知らない
いつめぐり逢うのかを 私たちはいつも知らない
どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語
縦の糸はあなた 横の糸はわたし
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
『糸』 中島みゆき
ある時にみたある隊長の姿を、今でも繰り返し思い出す。
「あの時にみたあれは何だったんだろう?」と思うことが私には多々あるのだが、その中でも特に繰り返し思い返していることが一つあって、その原体験は高校時代に遡る。
たしか高校2年生の頃の春だったのだが、高校の近所の消防署に配置されていた「特別高度救助隊(通称ハイパーレスキュー)」が避難訓練の指導でやってきた。
その時に話をしてくださった「ハイパーレスキュー」の隊長の姿を、私は繰り返し思い出している。
その隊長の話の内容はもうあまり覚えていないのだが、そのときに感じたその隊長の印象やその話を聴いたグラウンドの気配のようなものを繰り返し思い出す。
オレンジの服を着て話すその人の立ち振る舞い、その人の後ろに見える校舎の少し黄ばんだ白い壁、グラウンドに吹いている乾いた風、砂埃の匂い、制服の汗ばんだ感触、春の空の青さ。
そういうものが記憶の中に立ち込められていて、その印象があの時にみた隊長の「オレンジの姿」に圧縮されている。
「オレンジの姿」に圧縮されたものが、そこから「何か」が一挙にパッと開いてくるように、蘇ってくる。
「面影」という日本語があるが、私はいつもあの「オレンジの面影」を追いかけている。
もうそこにはないのに、それをジッとみつめているとフッと一瞬風が吹くように過ぎる「何か」の姿。そこにあるはずがないものが現れるような一瞬。
高校生の頃にハイパーレスキューの隊長の話を聴いて感銘を受けて、それが消防を志すきっかけの一つになった。
しかし、その時の記憶をしっかり覚えているわけではなく、もはやその記憶は日々移ろっている。
「あの時のあれはなんだったんだろう?」と思い返す度にその印象は”変化”していて、原型をとどめていない。
面影はいつも動いている。
いつも動いているから、過去の出来事でしかないのに、いつも新鮮な記憶として現れる。
面影を追いかけることによって、いつも新鮮な「何か」が現れる。
過去のものでしかないのに、いつも新鮮な「何か」が表れ、それは今も生きている。
今も生きて、今も私を暖める。
“Hyper”という言葉には「超越」や「向こう側」という意味があるのだが、私にとってあの「オレンジの面影」は、「向こう側」と「こちら側」を紡ぐ”救いの糸”のようなものなのだ。