おはようございます。
いま、自分の部屋の机の上に「炭酸水(サンペレグリーノ)」をおいて、窓の外で揺れている「ねこじゃらし」を眺めています。
「ねこじゃらし」のまわりで二頭の蝶々がたのしそうに舞っていました。
白い蝶々と、黄色い蝶々でした。
「いい朝やなぁ」なんて思っていたのですが、よくみたら白い方は「蝶」じゃなくて「蛾」でした!
ちょっと残念な気もしなくはなかったのですが、蛾も蝶々もフランス語にすれば両方とも「パピヨン」だし、「白い蛾」は幸運の象徴らしいので?、やっぱり今日は「いい朝」です(安定の無理矢理!)。
さて、今日は「風景」について話したいと思います。
と、思ったのですが、これを説明するのは実はとてもむずかしい。
風景について説明するのは難しいし、きっと「説明」できる類のものではないです。
でも、風景について考えたり、「自分の目に映った風景」を描こうとすることで、「深い意味」に触れることができると感じることが多いです。
だから、「物語」のちからを借りながら「風景」を描いて、その過程で「何か」を表現できればいいなぁと思っています。
そして、たくさんの「素晴らしい物語」や「素晴らしい風景」に出会ったり、それを自分でも表現しようと挑戦する最中に感じることがあり、それについてすこしだけ説明したいです。
それは、物語と風景はどこかで分かちがたく結びついていて、そこに”結び目”のようなものがあるのなら、それは「世界の根本」に関わる「何か」であるということです。
「物語と風景の秘密」のようなものを感じさせるような体験をしたり、その体験をふかく咀嚼したであろう先達の残した言葉を追いかけていると、その「何か」をつよく感じます。
そしてその「何か」は、”救い”に関わるようなものではないかと思っています。
お気づきだとは思いますが、僕はいま書いたようなこと日々感じ、考え、その「何か」を追いかけ続けています。
また、それを追いかける過程でつかんだものを、貴方と分かち合えたらいいなぁと常々思っています。
志を高く持ちつつ「ちいさな物語」を着実に育み、貴方と「何か」を分かち合って、日々を彩りたいと常々思っています。
それでは、今日も軽井沢の小さな窓辺で貴方の幸運を願っています。
二頭のパピヨンの舞う朝に想いを込めて。
誰もたどり着くべき場所はきっとあるんだ
だからいつまでもこの歌を歌おう
さあ歌よ響けよ この街を包むよう
そして君の胸に暖かいぬくもりの火 灯すよう
『Better Days』 BENNIE K feat.Def Tech
「誰かを想う」ということの不思議さについて考えた。
門司港にある『muna』という喫茶店で物思いに耽っていた。
ステキなお店だった。
今月のあたまに11周年を迎えたみたいだ。
僕は11年前に門司の消防署に配属されて働きはじめた。
「ちょっとした縁」を感じてうれしくなった。
うれしくなって、11年前のことを思い出して振り返ることにした。
消防車に乗ってこの街を見守りながら色んな景色を眺める時間がとても好きだった。
現場の匂いと汗の匂いがまじった車内で小隊のみんなと「どうでもいい話」をしたりしながら、窓の外を眺めるのが好きだった。
11年前に働いているときには消防士として働くことの「意味」をうまく見出せずにいた。
どうせみんな死ぬのになんで「命を救う」なんて言うのだろうと思って、仕事中にも虚しくなることがよくあった。
けれど、消防をやめたあと、消防の経験をもとにして本を読んだり人と話したりしながら「生命」や「救済」をはじめとする”根源”についての思索を深めていくと、そこにはやっぱり「意味」があったことに気づいた。
その「意味」を言葉にするのはむずかしいけれど、消防車にのって窓の外を眺めていた時間のことを思い出すと、その意味の匂いが仄かに立ち昇ってくる。
「誰か」がそこで待っている。
そう思うことで強くなれる。
そういう人がいる。
この「景色」をまもりたい。
そう思うことで強くなれる。
そういう人がいる。
「誰かを救う」こと自体になにか「意味」があるのかどうかはわからない。
ただ、”そこ”で待っている「誰か」のために備えて待っていると、内から「何か」がわきあがってくる。
その「何か」は、「誰か」のことを想うことでしかわきあがってこない。
だから、逆にいえば、「誰かを想う」ということ自体がその「何か」を呼び覚ましているともいえる。
その「誰か」のおかげで、力をえることができる。
その「誰か」が、力をあたえてくれる。
「誰かを想う」ということの不思議。
「救い」というものは、一方的に手を差し伸べるようなものではなく、一方的に受け取るものでもない。
”呼びかけ”られて、そこではじめて動けるようになる。
”呼びかけ”られていることに気づいて、そこではじめて”力の源泉”に触れることができる。
「救い」は、”一歩通行”ではない。
それに気づけるかどうか。
門司港の喫茶店の灰色のうすぐらい店のなかには午後の光がさしこんでいた。
やさしい空間のなかで、”やさしそうな二人”がお店を切り盛りしていた。
やさしさのなかに凛々しい面影のある女性が、席まで案内してくれた。
ここにある「やさしい空間」の”源泉”が垣間見えた気がした。
空気が思いやりに満ちていた。
海のみえる窓辺の席で玄米緑茶をのみながら、”盲目”だった自分の過去を振り返っていた。
あたたかいお茶をのみながら、何も見えていなかったあの頃の自分を”許したい”とおもった。
あの頃には気づけなかったことに、すこし気づきはじめた今の自分を誇りに思いたい。
今もまだ「ちいさな気づき」が得られただけど、この「ちいさな気づき」を育んでいくことで、「深い意味」に触れられると思うから。
すこし体温があがってきた。
緑茶を啜りながら、窓の向こうの景色を眺めた。
11年前にもみていた港の景色。
海に陽光が照りついて、水面が光を反射していた。
きらきらひかる海をボーッと眺めていると、窓の目のまえに紋白蝶がとんできた。
パタパタと羽をゆらす蝶々が、粉をちらしていた。
きらきらと散っていく鱗粉。
きらきらと波うつ海の光。
ふたつのきらきら。
ちいさな光の粒たちは、小さな港街を照らしていた。