いま、神戸にいます。
窓の向こうに「駅のホーム」がみえるタリーズでチョコリスタを飲んでいます(めちゃあま!)。
昨日で約一ヶ月の高野山生活がおわり、今日の午前中は京都で過ごして昼から神戸に移動しました。
移動する時間それ自体がとても好きなのですが、やはり「移動疲れ」とは無縁でいられるわけではなく、さっきまでネットカフェで爆睡してました。
「移動」をやめたいとは思いませんが、「立ち止まってゆっくりする時間」も必要なので、そのバランスを上手に取れるようになりたい。
「動いて、停まって」を繰り返す電車とそれを待つ人々がいる”ホーム”を眺めながら、改めてそう思いました。
それしても、久しぶりに山から降りると寒暖差に戸惑います。
僕は今朝までヒートテックを来ていたのですが、街では皆半袖なんですね。
やっぱり、下界は暑い…
走り出そう トンネル抜けて
会うから見える顔がある
会いに行こう どんなときでも
踏み出す一歩が 僕と 今日を変えていく
『会いに行こう』 UA
「お前のために言いよるんぞ」
という言葉を何百回聞いたのかわからないほど聞いたのだが、これもまたお決まりのフレーズだった。
私はこういう「お決まりのフレーズ」に敏感なのか、かなり昔のことなのにこの言葉を言ってきた人物のことを今でもよく覚えている。
彼らが他人のことを思って言葉を使っているわけがないのは明白なのだが、ここで私が気になっていたのは、彼らがその言葉を”自分自身”に言い聞かせるように言っていたことだ。
彼らの言葉はまるで心の奥底にいる自分自身に「嘆願」するようだった。
自分自身に「何か」を願うような響きを持っていた。
彼らの高圧的な言動の裂け目から、少しばかり悲嘆の声が漏れていた。
高圧的な人物の裏にある感情が「不安」のようなものであることはお決まりのパターンで、高圧的で面倒な人物に出会したとき、彼らのベースにあるものが「不安」なんだと気づくと少し彼らのことを許せるようになる。
この世で生きていると嫌いな人間との出会いも避けては通れず、私はこういう出会いからも「何か」を学びたいと考えている(こういう出会いはないに越したことはない)。
そのときは不快でしかない出会いなのだが、その不快な出会いから掴んだ「何か」は、後々自分自身の助けになることもある。
どうせ避けては通れないのなら、貰えるものは貰っておいた方がお得だ。
お寺の掛け軸に「我以外皆師」と書いてあるのを見てそんなことを考えたのだが、自分以外の全ての人が「師匠」とは言えずとも、相手が誰であれ何かしら学べることはやはりあると思う。