紡績

 

 

 

おはようございます。

いま、宇野からフェリーで直島にもどっています。

時刻は19時1分。

きょうの空はピンクと水色がとけるような淡い色彩で、風が生暖かいです。

なんだかやさしい気持ちにさせられます。

 

さて、僕は直島での生活がもうすぐ終わるため、次の準備にうつっています。

瀬戸内海のおだやかな海といっしょに過ごした日々は、かけがえのないものになりました。

冬をこえるときも、春を迎えるときも、夏のスタートを切ったときも、この海はずっと穏やかでした。

 

じぶんの胸の内にある想いを照らしたり、ひとのことを思ったり、冬も春も夏も、この海にたくさんの記憶を刻みました。

たくさんの記憶を刻んでも、こちらが大きく揺れる心のままで見つめても、いつもおだやかに揺れていて、やさしく黙ってくれる海。

ちからをもらいました。

ぼくは、この海が大好きです。

 

 

それでは、きょうも香川の小さな島からあなたの幸運を願います。

あなたのまちにも、暖かくてやさしい風が届きますように。

瀬戸内海の穏やかな波に祈りを込めて。

 

 

 

 

あなたと笑いたい

わかりあえずにいたとしても

ただ共に優しいときを すごせたら

それだけで

 

かぞくのうた(feat Hiroko Sebu)』 坂本美雨

 

 

 

父が亡くなったとき、坂本龍一さんの曲をよく聴いていた。

それが関係あるのかどうかわからないけど、龍一さんの娘さんである坂本美雨さんのうたを聴いていると、”不思議なきもち”になる。

 

悲しさや寂しさのなかにある「何か」の種に水をあげたくなる。

そんな気分になることがたまにあって、そういう気分に寄り添ってくれるような曲をよく聴いていた。

 

美雨さんの曲も、「そういう気分」に寄り添ってくれる。

最近よく聴いている。

今まであまりちゃんと聴いたことがなかった。

なんでもっとはやく聴かなかったのだろう。

 

 

 

悲しみの川に触れ

目を背けず いてくれた

心の奥に閉じ込めてきた 寂しさは

ちゃんと 花になった

 

あなたと』 坂本美雨

 

 

2月に直島に来てからというもの、「倉敷」に何度も訪れた。

吉福伸逸が生まれた町であり、良寛が修行をした町であり、「紡績」で栄えた町。

市花は藤。

 

「社会」というものをかんがえるときも、その思索の起点はだいたい『世界の中にありながら世界に属さない』になっていた。

心理療法のワークショップの本なのに。

「社会観」を磨くときもやっぱり傍らにこの本があった。

「心理」とか「社会」とか、そういう枠組みには到底おさまらない。

 

この本がぼくの「投影」を受け入れるのにピッタリなのか、吉福さんご自身がそうなのかわからないけど、自分でものを考えようとするとき、やっぱり頼りになる。

吉福さんの残した言葉が何かの「便り」におもえて、彼のことばを意識に引っかけながら、自分なりに色々かんがえるのが楽しい。

「場所」も重ねて考えてみると、なお楽しい。

 

 

  

この空に包まれると 私たちは海辺の砂

最後まで守ってくれる あなたがいる

 

この音を思い出せば 記憶へ繋がる

その愛に気付くことが この星を美しくしていく

 

in aquascape : うたを灯してLIVEver』 坂本美雨 with CAMTUS feat FOLKORE

 

 

いつもおもう。

「投影」というものは、別にわるいものばかりじゃない。

 

たとえば吉福さんに何かを「投影」して思考をめぐらせたり感情をふくらませたりすると、ぼくのなかの「何か」が成長していく。

すくなくともぼくにとっては「いいこと」がある。

 

「投影」することでその対象と直に触れ合えなくなる。

”ありのまま”のその人を見ていない。

一般的な解釈。

たしかに、そういう部分はある。

 

でも、「投影」を受け入れるだけの「何か」がそもそもその人に備わっていたと考えると、「ありのまま」という言葉の捉え方も変わってくる。

そもそもその人が「何か」を持っていたから「投影」が可能になったと考えると、あたかも「投影」していた部分が「嘘」でそれ以外の部分が「ありのまま」だとする通常の解釈が疑わしくなる。

 

通常の解釈の「ありのまま」を否定したいわけではなく、その「ありのまま」がまちがっているといいたいわけでもない。

そうじゃなくて、その「ありのまま」に加えて、「それだけじゃない何か」がある。

そういいたい。

「ありのまま」+「何か」=そのひと

ほんとのありのまま。

 

 

 

「クリスチャニア」のことを知ったときも、これに近いものを感じた。

「ひと」だけじゃなく、「まち」にも「ありのまま」に収めきれない「何か」がある。

 

倉敷出身の友人と京都出身の友人がデンマークに留学に行くという話を聴いて、その留学先が「フォルケホイスコーレ」という”成人教育機関”だと知ったとき、何となくピンとくるものがあった。

グルントヴィという思想家がこの「フォルケホイスコーレ」の設立に影響をあたえ、それが「クリチャニア」にも影響あたえていると知ったとき、ピンとくるものがあった。 

白髭のおじいさんで、近代デンマークの「国父」と呼ばれているらしい。

彼の詩を掻い摘んでみたり、神話論を齧ってみると、やっぱりピンとくるものがあった。

  

 

 

さわやかな草原を私は心地よく見つめた

蜂たちは舞い巡ってくる

牧草の滋養の胸元で

私が見たのは、蜂たちがどう吸い取ったかだ

かくもしっかりとその懐に

花々が抱き留めていたものに

私は歓喜の声をこらえられなかった

今私は判読できる

その不思議なすばらしさを再び

 

『北欧神話論』  『概説グルントヴィ』より

 

  

 

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