(5) 範疇

 

 

 

久しぶりに実家に帰ってきたら、すぐ近くにドラックストアの「コスモス」ができていました。

まえはそこに「明屋」という本屋があって、思い出がたくさんつまっている行きつけの本屋さんだったのですが、それこそちょうど一年前ぐらいに僕が実家に帰ったときと同じタイミングでつぶれてしまいました(死に目に会えた…)。

「明屋」が「コスモス」になったので、僕はいつもの調子で「”本屋”が”宇宙”になった!」と、すこし興奮しながら近所を歩いていました(治療不可能です)。

 

明屋以外にも、実家から歩いて5分もかからないところに「くまざわ書店」という本屋があるのですが、この本屋さんは哲学や心理学の本が充実しています。

ここ数年は実家に帰ってくるとフランクルの本を読むことが多く、今日も『識られざる神』という本を読んでいました。

フランクルの本に限らず、僕は心理学の本を”哲学”や”宗教”の問題と向き合うために読んでいます。

「心理(や身理)と真理の関係」と向き合うのがライフワークの一つで、この仕事は本当に面白い。

まだまだ勉強不足だし思考も拙いのですが、この仕事で得たものが貴方にとっても価値があるものになると信じているので、できるだけ心をオープンにして共有したいと思っています。

下手くそでも、自分の言葉で真摯に表現すれば「何か」が伝わると信じています。

  

 

改めて、いつも懲りずにお付き合いくださりありがとうございます。

 

それでは、今日も貴方の一日が充実しますように。 

 

 

 

導きたる明日への光 

散り散りに舞う夢 手のひらに

一日を告げる朝 静かな夜はどこへ

人は歩むよまた それぞれの夢求めて

 

SP Thanx』 ORANGE RANGE

 

 

 

「話が噛み合わないな」と思うとき、そこで起きているのは大抵の場合「カテゴリーエラー(範疇錯誤)」である場合が多い。

 

神戸から新門司にむかうフェリーに乗っていて、もうすぐ下船時間になるタイミングだったのでオープンスペースに向かったのだが、そのオープンスペースにあった大きなテレビの画面に「救助技術大会」の映像がうつっていた。

石川県の消防学校で行われた、消防士たちが通称「救助大会」と呼ぶ消防士の運動会(言い方が変ですが思いつかないので許してください)のようなものの映像だった。

この大会に参加する隊員は皆「救助服」と呼ばれるオレンジの服を着て活動する。

救助服は通常は「救助隊」という救助のスペシャリストたちが集まった隊の隊員だけが着るものだ。

「救助隊」というのは消防の世界では花形の仕事で、私も消防にいるときはこの仕事に憧れていた。

 

そもそも「消防士になりたい」と思った動機のひとつが「あのオレンジの服を着たい」というものだった。

あの”オレンジの服”はある種の「志」を持つ消防士にとっての大切な「想い」を形象化したもので、だからこそそれに惹かれて救助隊を志望する者は多い。

 

ただ、「消防や警察や自衛隊の奴らは”制服”を着てるだけで偉そうにしている」みたいなことを言っている人がいて、その人はさらには「頭が悪くて中身が空っぽだから服で着飾ることで周りを威嚇している」みたいなことを言っていた。

それを聴いたとき、たしかに一理あると思った。

 

「制服」というものには何か”自分”を必要以上に大きくみせる作用が働くところがある。自分自身の経験を振り返っても、周りにいた人のことを振り返ってみても、「威嚇」というと言葉が強いけど、どこか自分を守るために”防衛的”で”反動的”な「態度」が生まれていた部分はあったと思う。

とはいえ、「頭が悪くて中身が空っぽだから服で”着飾る”」みたいなのはもちろん言い過ぎで、ある種の人はむしろ”真の中身”を外に向けても”共有”するかのように、たとえばあの”オレンジの服”を着ていた。

彼の内に現れている”熱”が彼の外に表れ、周りの人たちに「その道をつないでいきたい」と思わせるような感染を惹き起こす。

そこには「真っ当さ」というべき神聖なものがある。

 

こういう「真っ当さ」と「邪な威嚇」。

それはそもそも”カテゴリー”が別なのだ。

大抵の人はこのある種の”真っ当さ”とある種の”邪悪さ”という異なる部分を併せ持っている。

人間には真っ当な部分もあるし、邪な部分もある。当たり前の話だ。

 

にもかかわず、「消防や警察や自衛隊は”例外なく”みんな中身が空っぽだ」と自覚的にカテゴリーを”ごちゃ混ぜ”にして煽る人に無自覚に乗っかって「カテゴリーエラー」を犯している人がいるのをみた。

こういう「煽り」に乗っかってしまう人の多くが苦手なのは「カテゴリーを分けて考える」という作業で、”つなぐべきでないもの”をつなげて考えてしまっている。

つなぐべきでないものをつなげて考えてしまうというより、そこには「線」を引いたほうがいい場合があるということを知らない。

”ケースバイケース”で考えずに、なんでもかんでも「どちらか一方」に決めつけたがったり、なんでもかんでも「一つ」にしたがる癖があると、「ある種の人たち」に簡単に煽られて流されてしまったりする。

 

これは普段の身近な人との会話でもよくあることで、

例えば

 

Aさんは本当は「海」についての”Xの話”がしたいのに、Bさんはその「海」についてのXの話を”Yの話”として受け取ってしまう

 

みたいなことがよくある。

Bさんが「海」についてのXの話をYの話として受け取ってしまうのは、Bさんの頭の中では「海=Y」という思考様式がこべりついて固まってしまっているから、という場合がほとんどだ。

 

だれしもそういう”固定観念”は持ってしまうものだ。それは仕方がない。

ただ、その固定観念に自覚的であれば、自分の中にある「海=Y」のような固定観念を一旦脇に置いておくことができる。

しかし、その固定観念に無自覚であれば、自分の思考様式から抜け出せずに「海=Y」のようなものをすべての物事に当てはめて認識してしまう。

 

固定観念に”自覚的”であれば、「カテゴリーエラー」はある程度ふせげる。

要するに、この問題に対処するには「いかにして自分の固定観念を自覚するか」というのが鍵になる。

 

とはいえ、「海=X」というカテゴリーの中にもさらに細分化されるカテゴリーがあったり、「海=X」と「海=Y」に通底する「海=Z」があったりするのもよくあることで、「カテゴリー」を自覚すれば”全部がわかる”というわけでもない。当たり前の話だ。

 

この辺の事情を「自覚」しつつ、それでもって「わからないこと」がいくらでもあると思って、人や社会や世界と向き合うのが「いいバランス」なのではないかと私は思う。

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