おはようございます。
いま、部屋の窓のちかくで空を眺めながらお茶を飲んでいます。
”杜仲茶”というお茶なのですが、これが結構おいしいです。
「杜(もり)の仲(なか)ってめちゃいいやん」と、また意味不明な”言語障害”が発病したこともあり、かなりハマっています。
言葉を象徴的に解釈して勝手に連想(妄想)を展開する癖は、きっと永遠に治らないでしょう。
「仲良しの森」とか、あるいは「仲直りの森」とか、めちゃよくないですか?
(すみません、ふざけてます)
意味不明な話は置いといて、今日はちょっと時間について考えてみたいと思います。
時間というか、「期限」について考えてみたいです。
「期限」について考えてみようと思ったのですが、それこそこのまえちょうど「期限切れ」の体験をしたので、それについて話をさせてください。
何年か前に小説家の保坂和志さんが「小説家になるような人間は、”車の免許”がなくても平気で生きていられるようなちょっと変な人間ぐらいちょうどいい」みたいな話をしていて、面白いなぁと思いました。
詳しい話は忘れたのですが、車の免許を持つことはそれ自体が一般的には「フツーのこと」で、そういう「社会化された感覚」である「フツーのこと」に馴染めなくても平気でいられるのが、良くも悪くも小説家になるような人間の素養だ、といったような話だったと思います。
そのときは「やっぱり小説家って変な人たちなんだなぁ」と思いました。
それ以上の感想は特になかったのですが、「おもしろいなぁ」と思って、なぜか嬉しい気分になったのを覚えています。
それと同じような話を、先月も聴きました。
別の作家の方も、「このまえ車の免許もなくなって手持ちの資格が0になった」みたいな話をしていました。
文脈をかなり端折っているので意味がわからないとは思いますが、ともかく、「変な話」でした。
「やっぱり作家って変な人が多くておもしろいなぁ」と、ぼんやり思いました。
”社会のコード”からはみ出るものを持つ人に出会うと、僕は嬉しくなってしまうところがあります。
作家の人たちは、”社会のコード”からはみ出ててしまうことがそのまま作家としての魅力になるところがあるみたいなので、やっぱり面白い人が多いです。
そんなことを考えていた9月のある日、登録している「タイムズのシェアカー」で引越しの準備のために車が使いたくてアプリを開いたら、こんな表示がでました。
「免許証の登録を再確認してください」
ん?
これはなんだ?
と思って、すこし胸がざわつき始めました。
そう、そういうことです。
「うわ、まじか」
財布の中の免許証を確認しました。
「うわ、やっぱり」
そう、そういうことです。
免許証の更新期限が切れていたのです!
「……。」
「……おぉ、おれも作家になれる!」
ふざけながら、しばらく部屋でひとりで爆笑しました。
しばらく爆笑していたのですが、引っ越しの準備のために出かけるには車が必要です。
そして、僕は思いました。
「免許は、いる。」
作家のような面白い人たちに憧れはありますが、僕は免許は持っていたい。
旅先で車じゃないとアクセスが悪い場所があったり、”親しい人”とドライブしたいときなど、「車があった方が楽しい場面」がこの先もきっとあるので、免許は持っていたいのです……
このまま免許を手放せば、「免許をもたない面白い人」になれる”美味しいチャンス”だとも思ったのですが(考えが浅薄!)、やっぱりふつうに免許を更新したいと思いました。
そこで、「免許更新」について調べてみました。
調べてみると、”期限”を過ぎても半年以内ならちょっとした講習を受ければ普通に免許を更新できるみたいでした。
結局、免許は失効せずに済みそうです。
よかった。
いやほんとによかった……
えっと…
何の話でしたっけ?笑
そうそう、「期限切れ」の話をしたかったのです!
「期限切れ」で”失効”になったと思っていた免許が、実は”取り戻せる”という話でした。
いやー、今日も相変わらず”無茶苦茶”ですね!
ともかく、北海道での最初の重要なタスクは、「免許更新」になったという話です!
(ふざけてばかりですみません…)
今日もふざけてばかりですが、貴方がちょっとでもいいから”クスッと”してくれるといいなぁと思っているだけなので、ゆるしてください。
貴方の笑顔を想像すると、僕はハッピーになれてしまうのです。
それでは、今日は貴方の笑顔を勝手に想像して、窓の向こうの空に祈りを捧げることにします。
笑顔の似合う貴方が、これからも幸せでありますように。
いや あのね
僕のポケットの未来を覗いて
きっと笑ってくれるから
これはいつか この先出会うあなたの
痛み一つ拭う魔法
『タイムパラドックス』 Vaundy
「思い出す」ことの価値について考えていた。
何かを「思い出す」ことにはそれ自体に価値があって、大切な「何か」を思い出させてくれるものには、もうそれ以上何かを求めなくてもいいような、それ自体の価値があると思う。
真木悠介の『時間の比較社会学』を公園のベンチに座って読んでいた。
川崎の公園のベンチにすわって、本を読みながら、「わたあめ」を食べていた。
見田さん(真木さん)の本を読んでいると、どこか懐かしい気分になってきて、さっきスーパーで「わたあめ」を買ってしまった。
スーパーの駄菓子コーナーに置いてある、80円ぐらいのわたあめ。
ちょっとずつ手でちぎって食べた。
砂糖がすこし溶けて指先がベタベタした。
ベタベタする指先をはやく吹きたかったけど、人差し指と親指に綿の溶けたあとの砂糖がついてキラキラしていて、それがなんだか嬉しくて、しばらくボーッと眺めてしまった。
しばらく指先を眺めたあと、キラキラした指先から目を離してグラウンドでテニスをする親子を眺めた。
中学生ぐらいの男の子と、仕事ができそうなサラリーマン風のお父さんが、テニスの練習をしていた。
ふたつのラケットが、交互にボールを叩いていた。
ネットのうえを、ボールが行ったり来たりしていた。
黄緑のテニスボールが、肌の色みたいな土のうえでリズムよく跳ねていた。
黄緑のテニスボールが、小気味よくバウンドしていた。
小気味よい音がする、小気味よい朝だった。
不意に、何かがあたまを過った。
「あ、ばうんでぃー!」と思った。
何かが、あたまを過った。
頭の中で、Vaundyの『タイムパラドックス』が流れはじめた。
あのね 君と
出会ったことを 今でも
ずっと 覚えているけど
でもね それは ずっと先の未来の話を
横で見てるみたいなの
『タイムパラドックス』 Vaundy
半年ぐらい前にも、川崎にきた。
半年前も、今回も、いとこのユウマの家に泊まらせてもらった。
ユウマの家の近くには『藤子・F・不二雄ミュージアム』があって、半年ぐらいまえの春に、ひとりで歩いて行った。
グラウンドの上で弾む黄緑色のテニスボールを眺めていると、そのときの感覚が甦ってきた。
特別詳しいわけじゃないけど、ドラえもんが好きだ。
好きだし、「ちょっとした縁」をかんじる。
ドラえもん自体も好きだけど、ドラえもんの作者である”フジコセンセー”に妙に惹かれる。
僕は”フジコセンセー”に”影響を受けた人”がつくったいくつかの作品に影響をうけた。
「この人がこんなふうに慕う藤子・F・不二雄って何者なんだろう?」と思ったりして、ずっと何となく気になっていた。
”影響の影響”を辿ると、そこには貴重な「何か」があることが多い。
「この人はいいなぁ」と思う人が「影響を受けた」と言っているものに「何か」を感じるようなことがあって、そういうときに丁寧にそれを辿っていくと、やっぱり貴重な「何か」を発見できることが多い。
”影響の鉱脈”を掘り起こす作業は、「宝探し」みたいだ。
半年前の春に川崎に来たときも、「宝探し」にいそしんでいた。
そして、『藤子・F・不二雄ミュージアム』にきて、”しばらく忘れていたこと”を思い出したりした。
ちいさい頃、実家から車で20分ぐらいのところにある「カタノのばあちゃんの家」によく泊まっていた。
いとこのユウマとカエちゃんも、一緒に泊まっていた。
カタノのばあちゃんの家に泊まると、いつもじいちゃんが近所のコンビニでお菓子を100円分買ってくれた。
「100円までならええぞー」と、ケチなのか優しいのかよくわからない言葉を放り投げながら、お菓子を買ってくれた。
「コウくんはわたがしが好きやねー」と、家にかえってわたあめをちぎって食べる僕に、ばあちゃんがいつも言っていた。
「だってうまいもん」と、返事になってないような返事をしながら、ばあちゃんに笑いながら返事をしていた。
『藤子・F・不二雄ミュージアム』には、ミニシアターがある。
15分ぐらいの短編映画を、”ちいさな劇場”で流してくれる。
その15分が、とても良かった。
今年の春に観た”小さな映画”のタイトルは忘れてしまったけど、とても印象に残った。
その映画自体の印象ではなく、その映画を観たときに甦ってきた「記憶の断片」のようなものが、つよく印象に残っている。
ちいさな劇場で親子連れのお客さんたちに囲まれながら上映前のスクリーンを眺めているとき、5歳ぐらいの頃の記憶がふと甦ってきた。
初めて映画館にいったときの記憶だ。
うすぐらい映画館のなかで、横に座っていたばあちゃんの匂いがしたのを思い出した。
クローゼットの埃っぽい匂いが染みついた、洋服の匂い。
キャラメルポップコーンの甘ったるい匂いもした。
ユウマが、横でポップコーンを食べていた。
カエちゃんは、黙ってちょこんと席に座っていた。
うす暗い映画館が、なんとなく怖かった。
暗い。
怖い。
でも、
ドキドキする。
ワクワクする。
あぁ、
ここはどこ?
映画館?
エイガカンっていうみたいだ。
大きな画面。
大きな音。
まぶしかった。
でも、
うれしかった。
あぁ、
光。
つぶつぶ。
光が、
グルグル。
まわる。
巡る。
伸ばす。
手を。
どこかへ。
季節。
季節だ。
そこにある。
季節が、
ただ、
巡る。
巡る。
想い。
想いが、
巡る。
季節のように。
ただ、まわって。
天体の渦。
流星。
光って、
消えて。
明滅。
波のよう。
光って、
消えて。
また、
光って。
煌き。
粒のよう。
微細に。
細かく。
もっと。
もっと。
刻んで、
そこに。
微かに。
確かに。
辿って。
貴方を。
貴方へ。
貴方が。
揺らいだ。
風だ。
天と舞って。
日々になって。
皹になって。
割れても、
裂けても、
絶え間なく、
そこに、
ただただ、
そこに。
そこにいて。
ただただ、
そこにいて。
捧ぐ。
捧げもの。
一切の。
一切のもの。
一切の、
貴方へ。
貴方はただ、
そこにいる。
貴方はただ、
そこにいて、
そして、
どこにもいない。
どこにも、
いない。
けど、
いる。
ここにいる。
ここにある。
ある。
いる。
ただ、
ここに。
小さなスクリーンの光が消えた。
上映が終わった。
制服をきた係のお姉さんが上映終了のあいさつをしてくれた。
高くてよく響く、感触のいい声だった。
心地よい声だった。
「それでは、お気をつけてお帰りくださいませ」
お姉さんの声と同時に、スクリーンの中央が開いた。
画面の真ん中が開き始めた。
スクリーンが二つに分かれて、ひらいていった。
スクリーンが扉になって、ひらいていった。
スクリーンの扉の向こうから、光が差し込んできた。
向こう側に、外の景色がみえた。
「おぉ」
驚いた。
スクリーンの向こうには、庭があった。
たくさんの緑と、広い空が広がる庭。
スクリーンの向こうが、ミュージアムの庭へと続く出口になっていたのだ。
庭へと続く、入り口になっていたのだ。
ステキな仕掛けだった。
庭へとつづく出口。
庭へとつづく入り口。
眩しい庭園。
僕らは、そこへ帰っていく。
いつか、きっと。
ずっと、一緒に。
うす暗い映画館の席を立ち、他のお客さんと一緒に、扉の向こうに出た。
スクリーンの向こうは、眩しかった。
眩しくて、目がしばしばした。
空がいつもより眩しくて、なんだかそれが嬉しかった。
眩しい空が、すこしキラキラしていた。
すこし、キラキラしている気がした。
それが、嬉しかった。
すこしキラキラしている気がする空を、しばらく眺めていた。
曇りのない真っ青な空に、雲の気配がした。
あるはずのない雲が、そこにある気がした。
静かな朝の雲が、そこにある気がした。
静かな朝の雲が、クスッとしている気がした。
キラキラした顔で、クスッとしていた。