(6) 受容

 

 

 

今日は、小倉駅の近くの「セントシティ」というデパートにいきました。

この「セントシティ」は数年前まで「コレット」という名前だったのですが、僕は一年前に実家に帰ってきてこのデパートに行ったとき、「”服屋”が”聖なる都市”になった……」とつぶやいていました。

 

あっ、意味不明ですよね。

もちろん説明します。

(今日も通常営業です)

 

たいした話ではないのですが、ぼくは「衣服」に”聖なるもの”を感取する癖があり、「衣服」にまつわる情報にアンテナが働くようになっていまして、この「コレット」というものもぼくのアンテナに引っかかったものの一つなのです。

で、むかしパリに「コレット」という伝説のセレクトショップがあったらしく、ある人からその「パリのコレット」の話を聴いたときに地元の「小倉のコレット」が思い浮かんだわけです。

 

すこし無理矢理ですね。

まぁ、進めます。

 

今日は、その旧コレットである「セントシティ」の7階にある「喜久屋書店」にいきました。

この本屋で、冬あたりから気になっていた内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』をパラパラとめくっていました。

内村は”トーマス・カーライル”という作家に強く影響を受けているのですが、そのカーライルは『衣服哲学』という本を書いています。

僕としてはこれは見逃すわけにはいかず、これを知った時は「きっとまともに読みはしないだろう」と”自覚”しつつ、Amazonで即買いしました(しばらくダンボールの中で眠るだろうと思います)。

で、そのカーライルの言葉を冒頭で引用している『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』の序文を読んでいると、内村が日記を書いていたことが判明しました。

そして、その日記に内村は”呼び名”をつけていたのです。

で、その日記の”呼び名”なのですが……

 

 

 

“航海日誌(log-book)”

 

 

   

Oh My God……

 

 

  

 

海を越えたら上海

どんな未来も楽しんでおくれ

海の向こうは上海

長い汽笛がとぎれないうちに

海を越えたら上海

君の明日が終わらないうちに

 

なぜか上海』 井上陽水

  

 

 (なぜか上海……)

 

 

 

「嫌いな人とは付き合う必要はない」という言葉を聞くことが時々あるが、あれを聞くとすこし違和感を覚える。

 

 

夕方、近所の王将で「豚と卵のいりつけ」と「胡麻団子」を食べながら、今朝、家の前で人が死んでいたことを思い出していた。

一年前に私が帰省したとき、家の前の川で人が溺れて死んだ。

今日の朝は、川辺の草むらで人が死んだ。

 

ここでは”人が死んだ”ことについてどうこういうつもりはないのだが、人が死ぬと消防や警察が駆けつけるのはもちろんのこと、そこには「野次馬」が発生することが往々にしてある。

私は昔からこの「野次馬」という存在が嫌いだった。

 

今では結構受け入れられるようになったと自分では思っているのだが、「現場」の近くにいる「野次馬」が嫌いなのはもちろんのこと、消防署に帰って「現場」でみたことを同僚や上司と話す時間が嫌いだった。

にもかかわず、私は「現場」で知り得た職務に関係ないことを軽々しくペラペラと話すことが往々にしてあった。

話している最中、心のどこかに”痒みのような苦痛”を感じているのは自覚していたが、「”集団”の中で生きるためには妥協しなければいけないこともある」と、いま思えば言い訳でしかない理由をつけて周りに流された。

 

私はこのときの”痒みのような苦痛”に似た感覚を、「嫌いな人と付き合う必要はない」という言葉を聴くと思い出す。

それはきっと「嫌いな人がいる」という状態が自分にとってはイヤなもので、そういうイヤな部分を放置しておくことを気持ち悪く感じるからだと思う。

 

「嫌いな人がいる」というのはたいていの場合言葉が不正確で、「嫌いな部分がある人がいる」という方が正確だ。

好き嫌いがあるのは人間として当然のことだと思えるが、”「嫌いなものがある」という状態をイヤだと感じる部分”が人間には備わっている。

そして、”「嫌いなものがある」という状態をイヤだと感じる部分”のことを「良心」と呼ぶ。

 

「自分を愛することができない人間は他人を愛することはできない」とよくいうけれど、自分を愛することができる人は自分がイヤだと思うことをやらないはずで、もし「嫌いなものがある」という状態をイヤだと感じる人がいたなら、その人は自分を愛するために「嫌いなものがある」というイヤな状態をなんとかしようと思うのではないだろうか。

それはとてもむずかしいことではあるけれど、人間として生きることの「意味」がそこにあると私は思う。

 

自分を愛するために他人のイヤな部分を許す。

それは自分を愛するために他人を愛することでもあり、他人を愛するということは自分を愛するということでもある。

嫌いなものを好きになる必要はないけれど、許すことはできると思う。

嫌いなものを許すことができたとき、人は自分を愛せるようになる。

 

「嫌いなものを許す」というのはとても難しい。

この世で最も難しいことなのではないかと思うことさえある。

でも、そこには人間として生きることの困難の裏に存在する確かな「価値」があると私は思う。

ちょっと大袈裟かもしれないけれど、「自分」と「他人」という根源的な”分裂”を癒すような「何か」がある。

 

もちろん、「許す」ということはその”存在”を受容するという意味であって、それがたとえば行為として表に出て自分を傷つけるようなものなら、その行為を受容する必要はないだろう。当然だ。

また、人間の生きる時間は限られているから、わざわざ嫌いな人とばかり付き合う必要もないだろうし、なるべく多くの時間を好きな人と好きなことをする時間に当てたいと私も思う。

ただ、「嫌いな人と付き合う必要はない」とか「好きな人と好きなことだけできればいい」という物言いには、「何か」が欠けていると私は思うのだ。

 

 

 

1件のコメント

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