(7) 特別

 

 

 

このまえ、弟と海で夕陽をみました。

福津市にある「福間海岸」という場所を訪れました。

むかし、この海岸のすぐそばに消防学校があったのですが、いまは”移転”してしまいました。

消防学校があるかないかは今となっては取るに足らないことなのですが、僕はここの「海景」が大好きで、実家にかえると必ずと言っていいほど訪れます。

 

数年前、僕がいつもここに通っていることを知っている方から、この「九州北部の海」は夏至近くになると”日の入りの時間が日本で一番遅くなる”と教わりました。

この話を聴いたとき、「沖縄じゃなくて福岡なんだ」という驚きと、自分の思い出が深く刻まれている海が「太陽に特別に永く照らされている」と感じ、何か、大いなるものに包まれているような感覚になりました。

 

そんな”特別な海”で友人以上に友人のような存在である弟と過ごして、「帰ってきてよかった」とつくづく思いました。

特別な景色を誰かと分かち合う時間は、格別ですね。

 

もうすぐ海開き。

今年の夏も、お互い楽しんでいきましょう!

 

  

    

逢えないときは この雨のように

泣けばいい それで良い

色を増すように

逢えないときも あの日差しように

想えば良い それで良い

色を増すように

 

』 Suchmos(原曲Petrolz) 

 

 

 

「−−月−−日にこんなことが起こる」みたいなことを悪戯に言っている人をみると、「あっ、こいつ偽物やな」と思う。

 

強く雨が降り頻るなか、山道を車で帰っていた。

巨勢典子さんの『この道の向こうに』というアルバムを流しつつ、雨の音を聴いていた。

雨が強く当たるフロントガラスの先をみると、少しモヤがかかっていた。

視界が悪いので、すこし速度を落として帰った。

 

最近イタコになったばかりの友人の相談に乗った。

そのあと、弟に教えてもらった”うきは市”にある『抒情詩』というカフェでくつろいだ。

イタコの友人はまわりに「この世ならざること」について話せる相手がいないらしく、その手のことにすこしは理解がある私に相談を持ちかけてくれたのだが、そこで気付かされることが多々あった。

 

「この世ならざるもの」の話を人前ですることは、普通はすこし遠慮する。この手のことに理解がある人のなかでも”まともな人”たちは、無闇矢鱈に「自分の知っていること」を話そうとしない。

無闇矢鱈に話すことで相手を混乱させるとわかっているからでもあるし、自分の大事にしていることが傷つけられることがあると知っているからでもある。

ただ、それを独りで抱えていくのは中々大変だ。

 

この手のことに少しは”勘”のある人たちは、「−−月−−日にこんなことが起こる」ということを感覚として理解している。

だから、たとえばネットでそういうことを公言している人をみたりしたとき、「そうかもね」と当たり前に受け止める。

ただ、そういう風に冷静に受け止めながら事を荒立てないようにする人がいる一方、それを「悪用」とまでは言わずとも、”下手な語り”をする人は割といる。

ここで私が言いたいのは、そういう「この世ならざるもの」への”勘”があるということを、ある意味「悪用」するような人間は信用しない方がいいという当たり前の話ではなく、そんなこととは無関係に「備え」はしておいて損はないということだ。

 

九州北部では毎年のように水害が起きる。

ずいぶん前に私が消防で働いていた時も毎年水害が起こって、「特別対策」をしていた。

前もって”来る”ことがわかっているから、「特別対策」といっても何ら「特別」な感じはない。

普段から備えておけば、すくなくとも”心理的な負担”はかなり減る。

 

「いつ来るのか」は何となく”勘”でわかることがあっても、結局のところ誰にもわからない。

ただ、「いつ来るのか」はわからなくても、「いつか来る」ことは割と誰にでもわかることだ。

だったら、「いつ来るのか」という不毛な議論で一喜一憂して時間を溶かすより、「いつか来る」という何ら特別でない「特別な事態」に備えて、”余計な心理的負担”を減らしたい。

 

こういう「備え」は正直面倒で、「いつか来る」とわかっていても、それこそその「備え」をすること自体が億劫で「負担」に感じる。

ただ、いずれ背負わなきゃいけない「負担」であることは間違いなく、それを”前もってやっておく”か””事が起きたときに慌ててやる”かということを想像すると、後から慌ててやる場合の方が「負担」が大きいことは容易に想像できる。

 

前もって備えれば「負担が軽減される」というと言い過ぎだけど、すくなくとも後から慌ててやるよりはマシになる。

どうして「負担」が軽減されるわけではないのに、前もってやる方がマシな感じするのか。

それを考えてみると、後からやったときには「誰かにやらされる感」があるからだと思った。

 

物事に追われると、自分の「責任」で生きている感覚が薄れていく。

物事に追われると、自分の「自由」で生きている感覚が薄れていく。

 

「責任」にも「自由」にも”負担”はつきまとうし、なんならそっちの方が”負担”は大きい。

ただ、そこには「楽ではないけれど楽しい」と言っていいような精神的な充足がある。

 

この「充足」の意味を知ること。

それを知れば、「特別なこと」が何ら特別なことではなく、「当たり前のこと」が実は全く当たり前ではなかったと気づくようになる。

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