(8) 身体

  

 

 

このまえ、門司港にいきました。

近くのギャラリーで「50周年」を記念した展示会が開催されていたので、行ってきました。

(50=後藤。伝家の宝刀。)

  

わたせせいぞうさんという門司出身のイラストレーターの方がいまして、そのわたせさんのギャラリーが門司港にあります。

僕はそのギャラリーに併設されている「マチエール」というカフェが好きで、この日はそのカフェで本を読んでいました。

読書がひと段落して、休憩がてら隣のギャラリーに行きました。

すると、なんとわたせさんの”画業50周年”を記念した展示会が行われていたのです……

 

このとき僕はわたせさんのことを知らなかったのですが、「どこかで見たことある絵だなぁ」と思いました。

後から気づいたのですが、わたせさんは大瀧詠一さんの『A LONG VACATION』のアルバムのイラストを担当されている方みたいでした。

 

僕はこういう”ポップ”なものが好きなので、わたせさんの絵にも大瀧さんの曲にも、こう言ってよければ、どこか「親近感」を覚えます。

シンプルなのに深いというか、深いのにシンプルというか、そういうものが好きです。

そういうものが好きだし、自分もそういうものを作れるようになりたいと思っています。

 

まだまだ遠い道のりですが、「シンプルで深いもの」をこれからも追求していこうと思いました。

いつか貴方に、シンプルで、深くて、温度のあるものを届けたいです。

 

では、今日は「80’sシティ・ポップ」でいきましょう!

貴方の今日が、たのしい一日になりますように。

 

 

机の端のポラロイド 写真に話しかけてたら

過ぎ去った過去しゃくだけど 今より眩しい

想い出はモノクローム 色を点けてくれ

もう一度そばに来て はなやいで

美しの Color Girl

 

君は天然色』 大瀧詠一

 

 

 

「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言うけれど、あれは根本的な考えが間違っていると思う。

 

消防署で働いていたとき、夜になると皆で「筋トレ」をしていたのだが、「消防士はろくに仕事もせずに税金で無駄に筋トレばかりしている」みたいなことを言っている人がいて、確かに一理あると思った。

「体力錬成」という名目でいわゆる「筋トレ」をしていたのだが、勤務中に筋トレをしているすべての消防士に「ろくに仕事もせずに」という言葉が当てはまるとは思わなかったけど、そう思われても仕方がないようなところは確かにあった。

消防士にとって体力を向上させることは業務の一環で、勤務中に「体力錬成」をするのは悪いことでもなんでもないけれど、「ろくに仕事もせずに」などと言われることに関しては、消防になんらかの悪因があることも確かだと私は思う。

 

小学生の頃からの学生時代のことを振り返ると、「運動ができる奴は偉い」みたいな風潮があるのは多くのひとが知るところだが、私はあれが嫌いだった。

嫌いだったが、情けないことにそれに染まっていた。

私自身は運動ができる方だったから、運動ができることで人に認めてもらえるのは嬉しかったけれど、だからといってそれを「偉い」とすることに対して「違和感」を拭えなかった。

それを「偉い」とすることに、どうも「違和感」を覚える。

この「違和感」は、消防士が「ろくに仕事もせずに」なんていうふうに言われてしまうことの要因とどこか通じていると思う。

 

「メンタル」の問題だったり「心の病気」の問題だったり、”心理”の話になると、よく出てくる言葉があって、それは「心の問題は体で解決する」というものだ。

これは要するに「メンタルの問題を解決したいならごちゃごちゃ考えてないで運動すればいい」みたいなもので、私は経験的にこれは正しいと思っている。

ただ、それを正しいと思って共感する反面、どこか「違和感」を拭えずにいる。

 

違和感を拭えずにいるのは、「心の問題は体で解決」というときに、「心と体」の”外”にある「精神」を蔑ろにしていると感じるからだ。

 

東洋哲学ではよく「心身一如」などと言う。

「心と体はほとんど一緒」という意味だ。

私はそれは正しいと思うというか、むしろそんなのは当たり前だと思っている。

当たり前だと思っているがゆえに、この言葉を聞くと「だから何?」と思うというか、「それで何かを言った気になっているの?」と思う。

それで何かを言った気になっているのを不思議に感じるというか、「なんで”偉そう”にそんなこと言ってるんだろう」と思うことがよくある。

なぜ自分がそんな風に感じるのかを考えてみたのだが、きっとそこで「心と体」の「外」にあるものが”なかったこと”にされているんじゃないかと感じていて、それがおかしいと思っているのだ。

 

ここで詳しい説明はしないけど(長くなるので)、人間の「精神」は心に帰属するわけでも体に帰属するわけでもない。

それは心と体の「外」にあるものなのだ。

それを知らない人は多い。

それを知っていても、ビビってそれを語らない人は多い。

 

「カラダで解決する」から偉いわけでもなく、「運動ができる」から偉いわけでもなく、「外」にあるものを「内」で受け取って、それを”態度”として示すところに人間の真の「偉大さ」がある。

「心」が丈夫だろうが、「体」が丈夫だろうが、そんなことは人間の「偉大さ」とは関係がない。

心や体が丈夫じゃなくても、偉大な人はいる。

 

「カラダで解決」とか、「運動ができる」という言葉には、そういう「偉大さ」を見えなくさせるようなところがあると感じる。

そういう「身体主義的な言葉」は、身体ばかりを強調することで、身体とは関係のない「外」があることを覆い隠してしまうところがあると感じる。

私がそういう「過剰な身体主義」の言葉に違和感を覚えるのは、人間の真の「偉大さ」を見えなくさせると思うからで、だからそういう「過剰な身体主義」は好きじゃない。

 

ただ、”健全”な心身を持つことは悪いことでもなんでもなく、むしろ端的に良いことだと思う。

端的に良いことだと思うし、私自身もそうありたいと思う。

というか、人一倍そういうものに惹かれていると思う。

 

「健全な心身」に人一倍惹かれやすいからこそ、その「副作用」のような「過剰な身体主義」に陥って大事なことを忘れてしまわないよう、人一倍気をつけたい。

要するに、「精神」というものを大事にして、それとは”カテゴリー”が異なる「心身」も”共に”大事にしたいという、言ってみればそれだけの話だ。

それだけの「シンプル」な話だけれど、そこある「深さ」を見失わないようにしたい。 

 

 

 

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