夏の昼

 

 

渋谷ストリームのスタバに着いた。9時前だった。

渋谷ストリームのスタバで、あれこれ考えながら、キーボードをかたかた打突していた。

今日は今年初めての半袖だった。腕がすこし冷えていた。ホットの抹茶ティーラテを頼んでいた。そのホットの抹茶ティーラテが、肘から先の袖の変わりをしているみたいだった。半袖で剥き出しになった冷たい肌をあたためるみたいに、ホットドリンクを飲んでいた。

最近は抹茶ティーラテ(ミルクをソイに変更)か、デカフェばかり飲んでいる。ミルクやカフェインを摂ると、お腹の調子が崩れる。

「お腹の調子」を考えるなら、カフェになんか行かなければいい話だ。それなのに、いつもカフェに行きたがる。きっと、飲み物以外に求めているものがあるからだろう。

 

朝のスタバは人が少なかった。「寂しそうな椅子」が並んだ店内で、ヘッドホンをして、ドビュッシーの『月の光』を聴いていた。

『月の光』を聴きながら作業をしていると、ここはまだ「夜明け前」だなと思った。このスタバには、月の光が満ちてるように見えた。

いや、それはちょっと違う。心地よい作業のための雰囲気づくりのために、そういうふうに店内をみることにしたのだ。

 

月明かりに満ちたスタバで抹茶ティーラテを飲んでいると「月が綺麗ですね」と言いたくなった。

「月が綺麗ですね」と言いたくなって、また次の瞬間には、「一体誰にそんなことを言いたくなったのだろう」と、すこし考えた。

月の光が満ちたスタバの店内には、たくさんの人が座れる長机があった。その長机を「コロナ対策」で区切っているプラスチックボードがあった。そのプラスチックボードには、”濁った光”が映っていた。

 

スタバを出てエスカレーターを降り、トイレに行った。この時間は、用事と用事のあいだの時間だった。何かと何かのあいだに「挟まれた時間」だ。「スキマ時間」とはちょっと違う、「挟まれた時間」。

この「挟まれた時間」に行ったトイレは、そうじが行き届いていて、綺麗だった。

このトイレにいったとき、なぜだか「靴紐を綺麗にむすべたとき」の感触が蘇った。

不思議だけど、「蝶々結びの靴紐」が、脳裏にうかんだ。

いまにも羽ばたきそうな「蝶の顕現」だった。

「”挟まれた時間”のこの感覚は、どこへ羽ばたいていくのだろう?」と思った。この「感覚」そのものが、この「イメージ」そのものが、どこかへ羽ばたいていきそうな気がした。

 

トイレを出て、「次の用事」のために渋谷の街を歩いた。

明治通りを歩いて、ニトリに入った。エスカレーターで11階まであがり、本棚の棚板を探した。次の用事は、「本棚の棚板探し」だった。棚板が6枚欲しくて、ニトリに来た。

 

6枚の棚板を探したけれど、「在庫切れ」だった。6枚の棚板を家に連れて帰りたかった。「新しい区切り」をつくるために、6枚の棚板を家に連れて帰りたかった。

棚板の「取り寄せ」をしようと思って、サービスカウンターに向かった。サービスカウンターに行くために、さっきとは逆に、エスカレーターで1階まで降りた。1階と11階の往復運動だ。

この1階と11階のエスカレーターの「往復運動」に、さっきの「蝶の顕現の感覚とイメージ」と似たものを感じた。

この「往復運動」は、蝶々がヒラヒラと羽ばたいているみたいだ。

 

買い物をすませて時計をみると、12時32分だった。そろそろ帰らないと夕刊に間に合わなくなる時間だった。バスで帰るか、電車で帰るか。一瞬、迷った。

「どっちにしようか」と考えながら、渋谷駅方面に向かって、とりあえず歩いた。「どっちで帰れば『あいだの時間』がうまく結べるだろうか」と考えながら、渋谷駅方面に向かって、とりあえず歩いた。

「バスだとゆっくり座って本が読めそうだ」と思った。だけど、電車でサクッと帰った方がいいような気がした。「きょうは本は読まなくていいや」と思った。

センター街を歩きながら、地下鉄の入り口を頭のなかに描いた。初夏の陽に照らされたアスファルトを踏みしめながら、夏の昼の街を歩いた。

腕に当たる風が温かくて、「夏の昼っていいなぁ」と思った。

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