彩りの源泉

 

 

 

月よみの

光を待ちて

帰りませ

君が家路は

とほからなくに

 

良寛

 

 

 

 

今朝、「ムラサキスポーツの50周年記念」の動画を観ていました。

「あっ、これ俺やん」と思いました。

50(ゴトー)とムラサキ(藤色)です。

そうです。これは「後藤」なのです。

 

うーん、やっぱりぼくは変なことを言っていますね。いつもこの調子だから、変なことを変なことだと感じるセンサーが鈍ってきているんだと思います。

世間の「色眼鏡」と自分の「色眼鏡」はやっぱり違うもので、ぼくの「色彩感覚」は、平均からすこし(?)遠いみたいです。

 

ぼくの色眼鏡は、結構な頻度で”ファジー”になります。そうです、「紫」になるのです。青でもなく、赤でもなく、「紫」になるのです。

そうです、青と赤が淡く溶け、混ざり合っていくのです。

 

「紫」は青でもなく赤でもなく、なおかつ青でもあり赤でもある。

矛盾しています。ぼくは、この矛盾が好きです。

この矛盾が、なんとも言えない「景色」をつくるのでしょう。

ぼくはこれからも「紫な人生」を追い求めていきたいです。

「紫な景色」をつかみながら、歩んでいきたいです。

できれば、あなたと一緒に。

 

 

すみません、いきなり話が「脱線」してしまいました(!)。

素敵な景色に気を取られすぎると、「事故」を起こしますね。

でも、ぼくはそういう「自己」を持ってうまれたのだから、しょうがないです(はい。言い訳です)。

さて、気をとりなおして(撮り直して)、始めましょう。

 

「”色んな”景色がみたい」と思って、今日も「外」に出かけました。

今日は近所のオーガニックショップに行きました。

pyram』という店です。

とても心地いい店でした。

ホームページの見出しに「小さな町から始まる小さな革命」と書かれていました。

その下に続く言葉たちを眺めていると、やっぱり心地よくなってきました。

その言葉たちは単に”暖かい”だけでなく、どこかに厳しい「冬の匂い」を感じさせました。

 

「勝利の女神は些事にあり」という言葉が好きです。

高校生の頃の大谷翔平選手が所属していた、花巻東高校野球部の一時期のスローガンです。

ぼくも高校生のころまで野球をそれなりに真剣にやっていて、技術レベルは全然違うけれど、「志」や野球に向き合う「態度」は負けないようにしようと刺激を受けていました。

真剣でひたむきに生きている人たちは、「遠くにいる人」にも影響を与えてくれるものです。

 

「勝利の女神は些事にあり」。スローガンを掲げるだけなら誰だってできますが、それを実践するのは難しい。いえ、すこし実践するだけならこれまた誰だってできるでしょう。

それを「実践しつづける」のが難しいのです。

でも、その難しさを引き受けて、「実践しつづける」ことには価値がある。

ぼくは、そう思います。

だから、困難でも「些事」と真剣に向き合いたいです。

いえ、あまり肩肘をはると行き詰まりそうです。

”丁寧”に向き合いたいです。

”誠実”に向き合いたいです。

 

丁寧に「小さなこと」と向き合うこと。

それはもはや「小さなこと」ではないでしょう。

小さなことと誠実に向き合うことは、「大きなこと」です。

 

実は、「小さなこと」が”大事なこと”だったんだ。そう後で気づいて後悔しないように、小さなことの”大きさ”を忘れないでいたいです。

小さなものの”偉大さ”を、忘れないでいたいです。

 

きっとぼくはこういう「大事なこと」を忘れるのが怖いから、いつも自分に言葉で言い聞かせているのだと思います。

大事なことを忘れないように、言葉と「自分」を繋ぎあわせようとしているのでしょう。

言葉と、仲良くしていたいものです。

 

『pyram』では「玄米のお餅」と「マヤ文明のお香」を買いました。

これから、丁寧に生活するための相棒たちです。

「やさしい味」と「やさしい香り」の予感がします。

 

この町は、「厳しい冬」の匂いも「やさしい冬」の匂いも、両方持っています。

「どちらか一方」ではありません。

だから、ぼくはこの町を好きになれそうです。

春がくるまで、丁寧に生活したいものです。

 

でも、春になればこの町ともお別れです。

もう、気持ちの一部は「帰り支度」をしています。

どんなときも「次」が待っているからです。

それが「自然」というものなんだと思います。

 

ぼくは、「次」もとても楽しみにしています。

ただ、思い切って「次」に向かっていくためには、「今」を蔑ろにはできません。

慌てず焦らず、「今」から「次」に向けての「準備」を楽しみたいです。

 

そして、「帰り道」もきっと彩り豊かになると思います。

そんな予感がします。

それとともに、厳しい道のりが待っていると朧げに想像できます。

寂しい道のりが待っていると朧げに想像できます。

でも、それがたのしみでもあります。

その「厳しさ」や「寂しさ」が”彩り”の「源泉」だと知っているからです。

ぼくは、「厳しさ」や「寂しさ」には”意味”があると学びました。

 

そして、そこにはまた「あなた」を感じます。

彩り豊かな帰り道に、あなたを感じるのです。

不思議ですが、ぼくはそこにあなたの存在を感じるのです。

その”彩り”はきっと、「次」で待ってるあなたの面影なのでしょう。

だからぼくは、それを追いかけているのでしょう。

 

pyramを出て、また、晴れた雪道を歩きました。

陽の光を反射する雪が眩しく、「扉の外」は想像の何倍も眩しかったです。

眩しくて、うまく目を開けられなかったけど、それがなんだか嬉しかったです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です