よい人間は暗黒な衝動にかられても、正しい道を忘れはしない。
『ファウスト』 ゲーテ
洞爺湖に浮かぶ羊蹄山を眺めていると、今朝から何となく気配を醸し出していた「黒い衝動」がフツフツと沸き上がってきて、「あぁ、ちょっと忘れかけていたけど、やっぱりオレは動物なんだなぁ」と思うが、ブクブクと湧き上がっている泡風呂に目をやりながら「まぁそのうち落ち着くでしょう」と思って、目を瞑った。
「ひとり旅」の最中だった。
「ひとり旅」が好きだ。というか、「ひとりの時間」が好きだ。
友達と過ごす時間も好きだが、ぼくは「ひとりの時間」をたくさん確保しないと心が煮え切ってしまう。
友達が多ければ多いほど幸せになるというのは大半の人々にとっての「真理」なのだろうが、友達が少ない方が幸せになれる人間がいるというのも一つの「真理」だ。
孤独が好きな人間は一人が好きなわけではなく、一人になるからこそ味わえる瞬間を好むわけであって、「誰かと一緒にいたい」という気持ちがないわけではない。いや、むしろ強い。
しかし不思議なことに、孤独が深まってくると「一人なのに誰かと一緒にいる」と思える時間が存在することに気づくようになり、こうなると小学生ころにぼんやり聴いていた「友達100人できるかな」という歌がやっぱり自分には無縁だったと悟るようになる。
孤独な方が幸せになれるタイプの少数の人々は、「科学」によると、「怒り」や「悲しみ」の感情が強くて精神的に不安定なことが多く「トラウマ」を抱えている場合が多い、とデータでわかっているらしい。
「それはそうだろうな」と思いつつ、しかし一人のときに現れてくる「誰か」の存在に気づけば、「怒り」や「トラウマ」から離れることができるのだから、そんな「データ」に捉われる必要はないと「誰か」のことを思い出して安心するし、この「誰か」の存在にまだ気づいていない少数の同志たちに知らせたいなと思う。
その「誰か」のこともいっそのこと「データ」として”証明”できないものかと期待するが、まぁそれは無理な望みなのだろう。なにせそれは「科学的」ではないから。
「怒り」や「トラウマ」から”別れる”ことは不可能に思えるが、そこから”離れる”ことは可能だ。
「怒り」や「トラウマ」は言わば”火山地帯”のようなところで活動している。
内面で勝手に沸き上がってくるモワモワしたりグツグツしたりのものを「遠く」から眺めていると、なかなか良い「景観」になったりもする。
その景観を眺めるのも、地球で過ごすことの面白さの一つでもある。
火山の噴火によって出来上がった湖面の揺らぎは、地球の”気分”の揺らぎに似ている。
と、肌寒くもあり熱くもある雪の降る露天風呂で、11万年前の火山噴火で出来上がった「不凍湖」を眺めながら思った。
「凍らない湖」の”さざめく波”の上に浮かぶ羊蹄山を眺めていると気分が落ち着くのは、「外の景観」と「内なる景観」が無関係ではないからなのだろう。
「内なる景観」を眺めると、そこにも「不凍湖」が存在することに気づく。
心は、凍らないのだ。
一旦「噴火」してしまえば、しばらくは落ち着く。
そしてまた、時がくれば「噴火」する。
それもまた、自然の摂理なのだろう。
さて、「次の噴火」に備えて何をすればいいのか。
ぼちぼち、考えよう。
ともかく、今日も地球は美しい。