人間は、生来のものであるばかりでなく、獲得されたものでもある。
『格言と反省』 ゲーテ
洞爺湖のまわりを歩きながら、「ここにも何かあるのか?」と考えていた。
旅先で「これは!」と思えるものに出会えることがある。「縁」を感じるものに出会えることがある。
その「これは!」に出会える確率は数字にすれば多くても1%ぐらいで(計算はテキトー!)、けれど1%なら100箇所に1つ、あるいは100人に1人ぐらいは「この人は…」と思える人に出会えることになる。かなり高い確率だ。
もう一つか二つぐらい小数点をズラしてもいい。二つズラしたとしても10000分の1で、日本の人口が一億ちょいだから、日本に一万ちょいぐらいの「この人は…」の人が存在することになる。やっぱり多いぞ(多すぎないか?計算がテキトーすぎる?)。
詳しいことは省くけれど、この日出会った「holiday market toya」は、人ではないけれど「これは…」と思わせられる、「不思議な縁」を感じさせるお店(場所)だった。
いつ何がどこで「発根」したのかわからないけれど、ここ数年は「未来のルーツ」とも言うべき、変な言葉が似合うような場所や人に出会うことが多い。
最近のぼくはそのことでいっぱいいっぱいになっている。
自分でも単なる「妄想」だろうと言い聞かせたりする日々が続いているけれど、でもそうやって言い聞かせるたびにいつも「これは…」と思わせられる出来事に襲われる。
この「不思議な感覚」をどう処理したらいいのかにずっと頭を悩ませている。これは頭を混乱させる「種」でもあり、幸福感を運ぶ「種」でもある。
最近は頭を混乱させたり幸福を感じたりしながら、”スーパーボール”みたいに訳もわからず跳ね回る日々が続いている。ぴょんぴょん飛び跳ねながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらしている。
そんなスーパーボールのような落ち着きのない僕に優しく接してくれる人たち。
そういう「これは…」と思わせられられる人や場所に出会って対話を交わすと、歩道に転がったり車道に転がったりしながら、時々「交通ルール」を無視したり「流れ」を乱してしまう自分自身を見つめ直す機会だと思わされる。
人が歩く速度よりはるかに速く進む「車」がビュンビュンビュンビュン行き来する「車道」に近づけば危ないと、フツーに考えればわかる。だけど、”生き急いで”そっちに向かって跳ねていくぼく。やっぱり正気じゃない。いまのぼくは「車道に飛び出すスーパーボール」で、それは「交通事故」の種だ。
最近ふと、「思いやり」という言葉が降りてきた。最近出会う人、最近出会う場所から「何か」を語りかけられているような気がしていたのだけど、その正体は「思いやり」なんじゃないかと思った。「もっと思いやりを持て」と言われているような気がした。そう思うと、すべてのことに合点が行き始めた。
沖仲仕の哲学者、エリック・ホッファーが「思いやり」という言葉を使っていて、その言葉を数年前からずっと意識していた。
そしていま、やっとすこし気づいた。「”自己認識を深くするか思いやりを深めるか”の二項対立ではなく、”思いやりを持てば自己認識が深まる”」というニュアンスでホッファーが「何か」を伝えようとしていることに気づいた。ぼくは、この「自己認識」と「思いやり」の関係の捉え方を間違えていた。
ホッファーはつねに「自己認識を深く」と言い続けた男である。たいていの問題は当人の自己認識の甘さに起因することが多いと指摘していた。しかし、「自己認識を深く、さもなくば思いやりを」と言ったのではなかった。「思いやりを、それが自己認識を深くする」と考えたのだ。
最近、ホッファーのアフォリズムがまとまって邦訳名『魂の錬金術』(作品社)になった。
『波止場日記』エリック・ホッファー 千夜千冊840夜 松岡正剛
あいかわらず、ラディカルである。「すぐに行動したがる性向は、精神の不均衡を示す兆候である」とか、「自立した個人は慢性的に不安定な存在である」とか、「われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する」とか、あるいは「感受性の欠如はおそらく基本的には自己認識の欠如にもとづいている」といった、そうそう、それが言えるのがホッファーだという警句に富んでいる。
が、その一方で、「思いやり」についての深い哲学がはっきり作動しつづけているのを感じた。
実際に「思いやり」に言及した章句もあった。たとえば、「他人に対する不正を防ぎうるのは、正義の原則よりもむしろ思いやりである」。「思いやりは、おそらく魂の唯一の抗毒素であろう」。なんだかすごくホッとした。やっとホッファーと友達になれたような気がした。
大事なのは、はじめに「思いやり」を持つことなのだ。はじめから「認識を深める」ことばかりにかまけていると、その先には「魂の堕落」が待っている。ただ単に認識を深めようとすると、「悪い部分」ばかりが目に入ってきて、それが内に入り込んできて、蝕まれていく。
おそらく人間の認識は「根っこ」の部分に左右される。完全無欠に全てをクリアに観れるのは「仏陀」と呼ばれる真理を悟った人だけで、そうじゃない人は自分の「根っこ」にあるものを世界に映して、それを起点に勝手に世界を再解釈するしかない。
認識にはそもそもの始めから「偏り」がある(だから面白いのだけど)。その「偏り」が一定の距離に近づくと人と人は「何か」を分かち合えるようになるし、その「偏り」が一定の範囲から離れると分かり合えなくなったり歪み合ったりする。
だから、何かを分かち合いたいと思うのなら、相手の「偏り」と自分の「偏り」を最低でも「一定の範囲」におさめる必要がある。逆に、近づきすぎてピントがボケることもあるから、やっぱり一番いいのは「ほどほどの距離を保つ」ということなのだろう。この「ほどほどの距離を”保つ”」ことほど難しいことはない。
他人や他者の「悪い部分」を観るのは簡単だ。人間は初めからそこにピントが合うように作られているから。生まれつきそういうオートフォーカス機能が備わっている。それが「生まれ持った性向」なのだ。だけど、その「生まれ持った性向」に逆らうこともできる。生まれ持った性向に逆らって他人の良い部分を観ることもできる。その「生まれ持った性向」に逆らって他人の良い部分を観る力を「知性」と呼ぶ。
最近出会った「この人は…」と思う人たちは、概して皆その「知性」を持っていた。
大人になればなるほど人間(≒自分)の「愚かさ」や「卑しさ」を知るようになる。けれど、「知性」を持つ彼ら彼女らは、ゴミの山から”宝石”を見つけるようにして他人に優しい視線を投げかける。
もちろんその分「愚かさ」や「醜さ」も深く知るようになるんだろう(それも大事なこと)。光と影は表裏一体だから。
でも、それでも彼ら彼女らは、いつもピントを”宝石”の方に合わせようとしていた。
きっと彼ら彼女らの視線の根っこにあるものが、「思いやり」というものの正体だったのだ。その「思いやり」がこの世で”宝石”を見つける「知性」を育んでいるのだろう。
ぼくもこの世界で、たくさんの”宝石”を見つけていきたい。彼ら彼女らの「思いやり」によって、そう思えるようになった。
はじめに思いやりありき。
そんな聖典を持つ宗教があれば、救われるのだろうか。