(11) フィーリングの海

 

 

 

物事の無常について仰々しくしゃべり立て、現世の空しさの考察にふける人々を私はあわれむ。われわれは、無常なものを無常でなくするためにこそ存在しているのだ。それは、両者を尊重することを知って初めて可能である。

『格言と反省』 ゲーテ

 

 

 

朝、白老駅に着いて「あっ、またやってしまった」と思った。

ウポポイ(民族共生象徴空間)に行く予定だった。アイヌの博物館みたいなところ。北海道に来たからにはアイヌは外せないと思っていた。

 

この日は月曜日だった。休館日だった。

こういうことはよくある。ろくに調べもせずに「とりあえず行けば何かある」とかなんとか思いながら、行き当たりばったりで行動する。そして、こういう失敗をする。

 

とはいえ、それを「失敗」だとは本心では思ってなくて、「ダメなら別のことをすればいいや」なんて呑気なことをだいたい考えている(だから同じ”失敗”を繰り返す)。

  

白老駅の近くのカフェにいった。『cafe結』というところ。”玄米のおはぎ”と”スパイスジンジャーティ”を飲みながら、店内の本棚に置いてあったアンドルー・ワイル博士の『人はなぜ治るのか』という本をパラパラとめくっていた。

 

「清らかな生活をしましょう」みたいなものと、「でも実際は綺麗事だけじゃ無理ですよね」みたいなもの。その両方を一緒に語ってもらえると、そこでようやく話をちゃんと聴く気になる。

偏っているものも好きだけど、偏っているものは自分の中に冷静にバランスをとるような視点を持たないと飲まれるので、その分警戒しながら話を聴く。

  

ただ、それを「バランスを大事にしたい」という言葉で言い表すとズレてる感じがして、もうちょっと説明したくなる。

  

「バランス」というと、なんだか「平均」や「中間」をイメージしてしまう。そうじゃない。

白があって、黒があって、その両極を行ったり来たりするようなイメージに近い。最初からその「真ん中」に行くのはちがう。最初から「グレー」を狙うのではない。あくまで「行ったり来たり」が必要なのだ。

その行ったり来たりの「揺らぎ具合」がいい感じのものを「バランスがいい」と呼びたい。

 

カフェを出て、予定を変更して苫小牧に向かうことにした。電車の出発までに時間があったので、待合室で読書をした。

中村昇さんの『ホワイトヘッドの哲学』を読んでいた。Kindleに入れていた本。

 

「あっ」と思った。

ずっと引っかかっていた「しこり」が除れそうな気配がした。

 

「時間」と「言葉」の問題にはずっと引っかかりを感じていた。大き過ぎるテーマだけど、それをずっと探求している。

このときに『ホワイトヘッドの哲学』を読んで、ずっと引っかかりを感じていた「時間」と「言葉」の問題がほぐれていく感覚をおぼえた。

 

「言葉」の次元で生きているとき、そこはすごく「粗っぽい世界」だと感じる。あくまで感覚の問題だけど、そう感じる。

言葉を捨てて瞑想をしたりして「無常」の次元に向かっていくと、そこには何か「安心感」があるように思う。

「粗っぽい世界」では安心感をずっと感じつづけるのは難しいように思う。だから、「無常」の次元でずっと生きると安らかでいられるんだろうなぁと思っている。

  

世の「真理」は無常だと、それっぽい人がいつも言っている。

「そうかもなぁ」と思いつつ、でも無常な真理の世界があるとして、なんで「粗っぽい世界」が存在するのだろうと思っていた。なんで真理の世界だけが存在せずに、「そうじゃない世界」が存在するんだろう?

「そんなのは考えても意味がない」と、多くのそれっぽい人たちは言っている。

あるいは、「それは幻想で本当はあなたもすでに真理の世界にいて、ただそれに気づかないだけなんですよ」とか言っている。

「はぁそうですか」と思おうとするけど、いつも「何か」が引っ掛かる。

 

その引っ掛かりの先にある「何か」を、ホワイトヘッドの哲学がほぐしてくれると感じた。

確かに世界は無常だと思う。でも、その無常の(その奥の)真理の世界と言葉の世界は必ずしも切り離す必要はないと思う。

切り離す必要がないどころか、それが重なった?ような世界にこそ、「何か」があると思う。

 

その二つの世界を「本当は一つなんだ」と言うのは無理がある。仮に本当は一つだとしても、「いまは一つだと思えない世界」が現にここにある。

それが幻想だとしても、幻想としてここに確かにある。

  

そのへんのことをハッキリさせた上で感じるのは、それが「真っ二つに分かれてる」とは言い難いということ。

その「二つに分かれているとは言い難い」という感覚。「一つか二つか」の”正解”を求めるのではなく、「二つではない」という確かな感覚に立脚した方がいいんじゃないかと今は思う。

そして、「二つではない感じがする」の「感じ」の部分を大事にするといいのではないかと思う。

「一つか二つか」の答えをハッキリと決めようとするより、「二つじゃない感じ」の”フィーリング”を追求するときにこそ「ホントっぽいもの」を感じる。

それはハッキリと「ホント」と言えるようなものではないようにも思うけど、「本当は一つだ」とか「実際は二つだ」と言うより、「二つではない感じがする」と言った方が「ホントっぽい」と感じる。

この「ホントっぽさ」を感じて生きるための鍵になるのが「言葉」なんじゃないかと、ホワイトヘッドの哲学を読みながら思った。

 

「無常を無常でなくする」という、びっくりするほど大きなゲーテの言葉。

それが実現不可能ではないと確かに思えるような機能。

そんな機能、そんな力が言葉にはあるんじゃないかと、ホワイトヘッドの哲学を読んでいると思えてきた。

説明するのは難しいから、「フィーリングの海」を言葉と一緒に泳いで示していけたらなぁと思った。

 

iPadの画面上に並んだ文字に食い入っていると、周りいた他の「出発待ち」の人たちが動き始めた。

予定の時間が近づいていた。

iPadを閉じて、ぼくも準備をはじめた。

 

準備をしながら、「予定していたウポポイ訪問が叶わず”予定変更”をすることで、思わぬ収穫があったのだ」と、さっそく言い訳めいたことを思いついた。

失敗を収穫に無理やり変えるように、言葉を並べた。

「言い訳」はさておき、楽しい失敗だった。

 

楽しい失敗をしながら次の電車を待ち、変更した次の行き先である海に向かった。

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