いま、小倉にいます。
時間ができたので、すこし実家にもどっています。
行きつけのスタバの「いつもの席」でカモミールティを飲んでいるのですが、もう10年以上もピンポイントで「同じ席」に座っているのを冷静に振り返ると、変化せずに同じことを繰り返しているので、「なんかおれ、おじさんやな」と思いました……。
さて、きっとお気づきだと思うのですが、ここでは今までと文体を変えていました。
新しい挑戦をしようと思ったのですが、書いていて全然楽しくない……。
慣れないことをすると楽しくないのは当たり前なのですが、どうも自分の「道」から外れているように思えたので、この文体は一旦やめにしました。
文体をやめるというか、書くときのスタンスを「怨念」のようなものに頼る方法はやめようと思いました。
「新しい挑戦」をするのは成長のために必要なことではありますが、それが邪魔になるタイミングというのもおそらくあって、”自分を固める”ような時期には適していないと思います。
成長のためには「破壊」と「再生」が必要で、その「再生」のプロセスでは”自分を固める作業”が必要です。
「これだ!」と思うものを自分の意識(と心身)に馴染ませる必要があります。
その作業と「破壊」を伴う「新しい挑戦」を混同してしまうと、どうやら上手くいかないみたいです。
せっかく「生まれ育とうとしているもの」を殺してしまうことになるからでしょう。
ともかく、いまは一旦、「生まれ育とうとしているもの」をしかと守って育むことに集中しようと思います。
しかしまぁ、実家に帰ると甥っ子(1歳)が可愛くて仕方ない……。
青空に線を引く
ひこうき雲の白さは
ずっとどこまでも ずっと続いていく
明日を知ってたみたい
『いのちの名前』 木村弓 久石譲
「プロとは何か?」を考えるとき、私は朝の車庫で消防車の掃除をしていた先輩のことを思い出す。
その先輩は水を軽くしぼった雑巾で丁寧に車両を磨いていた。
私は朝の眠気と気だるさが残ったままボーッと車両を拭いていた。先輩のそれとは対照的だった。
「どうしてこんな朝っぱらからこんな風にいられるんだろう?」と思った。
「たいして汚れてもいない車両をそんなに丁寧に拭く必要があるのか」と思ったが、その先輩が消防車を拭いている姿をみると、そんな風に思った自分がちょっと恥ずかしくなった。
ごたくを並べようとする自分にたいして、有無を言わせず「オレが間違ってる」と思わせるような他人の姿をみることがある。
なぜある種の人のある種の行動は他人を感化するのだろうか。
この感覚を言葉にしようとすると、もうその「感化」のもとになっている「何か」は消えていく。
あの「何か」を見たあとしばらくしてそれが記憶の深層に沈んでも、時折、記憶の表層にそれが浮かんでくる。
その記憶が蘇ったとき、あのとき車庫で感じていた空気の冷たさや埃っぽい匂いも一緒に思い出す。記憶のリアリティというか質が他のものとは違う。
”ある種の感化”を誘うような記憶が残っていると、その場面に出会したわけでもないのに、「この人はきっとあの”感化”を誘うような所作や行動をしているだろう」と、”ある種に人”からプロとしての生き様の履歴のようなものを感じ取ることがある。
当然、その感取したものが正しいのかどうかはわからないだが、自分の中では「あっ、この人はたぶんそうだ」と確かさを持って感じられることがある。
その人の持つ気配や空気の中に、自分の記憶の中にある他の誰かの気配や空気が混ざり、その空気が違和感なく混ざり合うというと少し表現がズレるのだけど、そういった表現に近い現象が起きる。
彼らの気配に感化され、それに感染する。
私の中の素直な部分が、それに倣って「自分もそうありたい」と思う。
ただ、消防署でみた彼の気配に感化されたのだけど、「彼のようになりたい」かと言うとそれは少し話が違ってくる。
彼の仕事のやり方や考え方には「あの瞬間」に感化されたようには心を動かされなかったし、それを自分の中に取り込みたいとも思わなかった。
でも、あの瞬間に感じたあの気配のようなものを自分も纏えるようになりたいというか、「あの感じ」に近づきたいという思いは確かだ。
自分とは違う価値観や生き方をしている人がいても、その人の持つ「何か」が”本物”なら、私は無条件にそういう人にたいして「人としての信頼」のようなものを持つ。