今日は配達が休みだった。朝は6時ごろまで寝ていて、なかなか布団から出ずにウダウダしていた。
きのうの夜、座禅をした。
そのときに焚いたラベンダーのお香の匂いが布団に残っていた。
布団のぬくぬくした感覚と、煙っぽいラベンダーの匂い。そのふたつが、布団の中で、ひとつの感覚として混ざり合っていた。
起き上がって顔を洗った。
顔を洗いながら、今日はなんだかいつもより寂しい気がした。「休みの日の朝」は、なんだかいつもより寂しい。
朝刊のあるいつもの朝は、起きてすぐに気持ちをむりやり「明るい方向」に向けていく。そのときは、寂しさを感じる部分を、「見えない部分」にむりやり押し込めているんだろうか。
自分のなかにある「寂しさを感じる心の隙間」を、無意識に埋めている気がする。
祐天寺のスタバにいった。窓際の席で抹茶ティーラテを飲んだ。ミルクをソイに変えてもらって、カラダに合わないカゼインを回避。
窓の外をみると、向こう側に赤白のクレーンがみえた。
写真を撮りたいと思った。だけど店内でシャッターを切るのはなんとなく億劫で、店を出てから撮ろうと思った。
きのうの夜、ふと思い立ってカメラを枕元に置いて寝た。
「カメラってなんなんだろう」という疑問がずっとある。何か新しいことを始めたりするとき、「そもそもその”何か”って何なんだ」と考えがちだ。
写真を撮り始めようと思ったときも、「そもそも写真って何なんだ」と思った。「そもそも写真って何なんだ」と思って、考え込んでしまった。
いつもそういう「そもそも」のところで考え込んでしまう。スタート地点でグズグズやってしまう。
そういうグズグズしている自分は、飲み終わったマグカップの底でダマになった抹茶ようなものだと思った。
写真を撮るという「行為」以前に、カメラという「存在」自体に引っ掛かりがあって、意識が”ダマ”になっている。
写真を撮っているとき、どうでもいいことを忘れられることがある。そのときは「忘我の状態」みたいになっている。でも「忘我」ではあるけれど、例えば座禅をしているときのような忘我の感覚とはちょっと違う。
そこにはカメラという機械が「異物」のようにドカっと居座っていて、それは重みのある存在としてそこにずっといる。
「無」には程遠い。むしろ逆だ。そこに「在る」こと。その異物感。
父は港湾労働者だった。仕事で船上クレーンの操縦もしていた。向こう側にみえるクレーンをボーッと眺めていると、父の存在もカメラに似てるなぁと思った。
出張でほとんど家にいなかったから、ときどき帰ってきたときには変な感じがした。まるで「異物」のように、家のなかに居た。そして気づくとまたすぐに出て行く。異物のように現れて、ある日突然去っていく。不思議な存在。
中学生のころ、父にふと「お前は機械に向いとると思うけどなぁ」と言われた。そんなことを言われたのはそれっきりだった。普段は息子に余計な口出しをあまりしない人だった。だからなのか、その言葉が今でもずっと心に残っている。
いま振り返れば、昔から「機械的なもの」への憧れと、それに反するような「機械的なもの」への抵抗感がずっとあった。両儀的な気持ちがあった。
バイクとか車とか、そういう「カッコいい機械」を、マニアックにいじりたいなぁという気持ち。それと、バイクや車みたいなそんな”無意味”で”面倒”なことに時間を使いたくないという気持ち。そういう両義的な気持ちがあった。
その両義的な気持ちは、野球をやっていたところの、グローブやスパイクの手入れを「もっと入念にやりたいなぁ」という気持ちと、「そんなにやっても意味ないやろ」みたいな気持ちに似ている。
そんな相反する気持ちを抱えながら、野球をしてたときは「道具を大切にするってどういうこと?」という問いを持ち続けた。消防にいたころは「資機材の取り扱いに習熟するってどういうこと?」という問いを持ち続けた。いつも”スタート地点でグズグズ”していた。
異物になった過去の問いが、今でも意識のダマになっている。その時々の問いをしっかり解消できないと、意識の中に異物が残る。
「過去の心残り」のような、「異物のような意識のダマ」を溶かしたい。「過去の心残りのダマ」をいまカメラに向き合うことで、溶かそうとしている。
今の自分のスタート地点でグズグズしているとき、過去の自分がその時のスタート地点でグズグズしていたときのことを思い出す。
「今のスタート地点」と「過去のスタート地点」は別の場所だ。でも、別の場所だけど、それらはどこかでつながっている。そこには、”同じような形の異物”がいつも存在する。
だから、今の自分のスタート地点でもがきながらそれを乗り越えることは、「過去の心残り」を解消することでもある。
過去にやっていたこととは「別のこと」をやっていても、「過去の心残り」は”別の仕方”で解消できる。
曇り空の下の祐天寺駅。いつもより人通りの少ない街で、オートモードでシャッターを切った。カメラの画面に映ったクレーンを眺めていると、いつのまにか寂しさが去っていた。