今日、軽井沢は雨です。
梅雨ですね。
雨ばかりだと気分が重たくなるのは誰しも同じだと思うのですが、貴方もご存知の通り、僕は雨が好きです。
雨が好きと言っても、雨の日はきっと人並みに気分が落ちています(日光が恋しい!)。
人並みに気分が落ちているのですが、雨がもたらす「何か」に惹かれる部分があるから、落ちている部分と釣り合うだけの「気分の高揚」のようなものが雨の日には訪れます。
いつから雨が好きになったのかはわからないのですが、新海誠さんの『言の葉の庭』という映画をみて「雨が好き」という感覚が芽生えたのは覚えています。
この映画はストーリーももちろん面白いのですが、それより「細部の描写」がすごくいい。
特に「雨の描写」がとても綺麗なのです。
僕は梅雨時期になると、あの素敵な「雨の描写」を思い出します。
この映画は45分程度の短いものなので比較的気軽に観れますが、それでも時間がなくて「細部のあの感じ」が欲しいとき、僕はsaibというモロッコのカサブランカ出身のクリエイターが『言の葉の庭』を素材にして作った『in your arms』という曲(と映像)を聴きます。
この作品には『言の葉の庭』の”湿った感じ”を、”すこし乾かした感じ”があって、そこがすごくいいのです。
この曲は、”雨で湿っているのにどこか乾いている”ような、そんな不思議な曲です。
今年の梅雨も、『in your arms』の「不思議な乾き」を感じながら、雨を楽しみたいです。
そちらの天気はいかがでしょうか?
なんとなく、晴れでも雨でも曇りでも、たくさん笑って過ごされているような気がします。
もしそうなら、そのまま楽しい日々を過ごしてください!
今日も、雨の軽井沢から貴方のご多幸を祈ってます。
夜の露を払って 花は咲いていくもの
涙を払って 人は行くもの
過ぎた思い出達が 優しく呼び止めても
私はあなたの戸を叩いた
『果てなく続くストーリー』 MISIA
「真の友情には一種の”無関心”のようなものが存在する」といったようなことをシモーヌ・ヴェイユが言っていて、その意味について考えていた。
このまえ地元に帰省していたとき、「懐かしい記憶」を振り返っていた。
「懐かしい記憶」を振り返っていたのだが、「あの頃に戻りたい」とか「あの人に会いたい」とかそういうことは全然思わなかった。
お世話になった人や仲の良かった友人のことを思い出して、「恩義」というと大袈裟だけど、感謝の気持ちのようなものが湧いたのだが、だからといってその人たちに今会いたいかと言えば、答えはノーだった。
時間がいくらでもあればその人たちに会って「どうでもいい話でもいいから顔をみてゆっくり話がしたいなぁ」と思う。
けれど、大袈裟ではなく自分に与えられている時間は限られているわけで、その限られた時間を想うと「その人たちに会うぐらいなら独りで本を読んでいたい」と率直に思った。
「薄情すぎるかな」と思ったが、自分に嘘をついても仕方がない。
”冷徹さ”がないと、自分の人生も他人の人生も無駄にしてしまう。
ヴェイユが「真の友情には無関心のようなものが存在する」と言っていて、その意味がいまだによくわからないのだが、私が地元の人たちに対して感じているものは、それとは別物だと思った。
ヴェイユのこの言葉は友情に限らず、愛情にも言えると思う。親子、兄弟、夫婦、恋人。
友情に限らず、親しい人との関係が真なるものなら、そこにはきっと「無関心」のようなものが存在する。
「無関心」のようなものが存在するということはわかるのだが、それが具体的にどういうものなのかを確信できずにいる。
こういう「わかるけど、わからない」みたいなことがよくあって、昨日もゲーテの箴言集を読み返していて、それが「真なるもの」であることは何となくわかるのだけど、実際にはそれを心の底から理解しているわけではないということがよくある。
考えてみればこれは不思議なことで、心の底から理解しているわけではないのに「わかる」と思えるような部分が人間には備わっている。
それで「わかった気になる」と痛い目をみることは経験上知っているのだが、それを「わからないけど、わかる」ことによって、その「真なるもの」に近づけるようなところがある。
だから、「わからないけど、わかる」と思えるものを自分の中で大事にとっておき、いつかくるかもしれない「わかる」時にむけて思索と行動を続けることで、「成長への確信」のようなものが浮かんでくる。
このブログで消防のあれこれについて振り返ってみているのだが、自分自身で意外に感じているは、私は自分で思っているより消防に対して「無関心」になっているということだった。
私は自分のことをウェットな人間だと感じることが多いのだが、案外ドライな部分も多いのかもしれない。
いや、かもしれないというより、自分の”冷酷さ”を感じることが多々ある。
そんな冷たい部分があるからか、「消防」というものは自分のなかで今でも大切なものだけど、「あの頃に戻りたい」とは全然思わないし、書いている途中も、「こんなことを考えるくらいなら先のことを考えたい」と思うことが多かった。
過去に具体的に何があって何を感じていたとか、そういうことにはもうあまり関心がなくて、そこで起こった出来事や感じたことが”未来にどうつながるのか”という点に関心がある。
けれど、それと同時に、過去に感じた「永遠のかけら」のようなものは今も変わらず”永遠”に自分の中に生き続けているし、それがあるからこそ力が沸いてきて「今を生きよう」と思える。
湿った雨のような過去が、乾いた雪の”結晶”のようなものに変わる。
それが自分の中に居場所を占めて、”冷たくて温度のある感覚”として「未来を生きる力」の源泉になる。
ヴェイユのいう「無関心」の意味はまだよくわらないけれど、それがこういう「結晶」のようなものと関係するのかもしれないと何となく思った。
もしそうだとしたら、今まで出会った人達からもらったたくさんの「結晶」があれば、一人でも強く生きていけると思う。
何となくだけど、「一人になっても生きていける」と思うことで、人に優しくなれる気がする。
別に「一人になりたい」と思っているわけでは全然ないが、「一人になっても生きていける」と思うことで誰かのことを誠実に想い続けられるのなら、それはいいことだと思うという話だ。