One way street 照らす月と歩いた
好きな歌を口ずさみながら
感じたくないものも感じなきゃ
何も感じなくなるから
『誰にも言わない』 宇多田ヒカル
腹の底の怒りが溢れそうなとき、森博嗣さんの小説に出てくる真賀田四季というキャラクターのことを思い出します。
僕は小説家の森博嗣さんのエッセイが好きで、よく読みます。
森さんの本は小説よりエッセイを読む方が断然多いのですが、森さんが”抽象飛行”とでも言っていいような力で書いた小説がとても好きです。
『スカイクロラシリーズ』や『100年シリーズ』や『四季シリーズ』や『ヴォイド・シェイパシリーズ』がそれに当てはまります。
抽象度がかなり高いというか、森さんは「ビジネス」として小説を書いているとおっしゃっているので普段は読者がついて来れないような書き方を避けているらしく、おそらく「本気」では書いていません。
けれど、時々思いっきり抽象度を上げて書いてくれることがあって、上記のシリーズは「本気を出している」というか、普段とは違った書き方をされています。
僕は『100年シリーズ』や『ヴォイド・シェイパシリーズ』は読むときのコンディションが悪かったのかあまりピンとこなかったのですが、『四季シリーズ』と『スカイクロラシリーズ』には心酔するように影響を受けました。
“思想的”にも影響を受けてしまったと思います。
自分の中にある「何か」に深く共鳴する作品なのです。
すみません、好きなものの話になるとついつい興奮して話が長くなります。
YouTubeに素晴らしい動画が上がっていて、それを観ると「何か」が伝わるかもしれません。よかったら観てみてください。
最近ちょっと「イラッとする」ことがありました(相手はオッサンです)。
「怒り」というか「忿怒」というか「怨念」のような感情をコントロールしようとするとき、僕は森さんの創ったキャラクターである真賀田四季博士のことを思い出すことがあります。
思い出して、真賀田博士を「憑依」させるように上記の動画を観たり、アニメの主題歌になった高木正勝さんの『girls』を何度も再生したりします(たぶんちょっとトチ狂ってます)。
そうすると自分の中の「何か」にスイッチが入ります。
今日もさっきまでそのスイッチが入っていました。
一見それっぽいことを言ってるようにみえて実は単に視座が低いだけのオッサンや自分の卑しさを隠蔽するために喧しく強がる女が嫌いです(両者に共通するのは中身がないのに声だけはデカいという点)。
こういう人たちに出会うと控えめに言って「殺したいな」と思ってしまうのが僕の悪い癖なのですが、ここには僕のコンプレックス(複合観念)があって、幼年期や青年期にこういう人たちに「誤った愛着」を持ってしまっていたことがあり、今でも時々その頃の癖を引きずって「誤った親しみ」を感じてしまうことがあります。
一瞬「誤った親しみ」を感じてしまうのですが、すこしは大人になったこともあり、それが「誤り」であることにも気づけるようになりました。
いまは「あっ間違えた。こいつらは下等生物だった」と気づきます(口が悪くてすみません)。
まぁ「嫌い」という感情は大抵の場合同族嫌悪ですから、これは僕自身の影の部分でもあります。
「自分の影の部分を他者に投影して理不尽に怒るな」と”おさげをぶら下げた優等生”に叱られそうですが、僕はそもそも「投影」でない認識なんて存在しないと思っているので、優等生のお叱りに一理あることも理解した上で、一旦無視することにしています。
「最高の復讐は赦すことだ」と10年以上前に尊敬する作家に教わりました。
僕はこの考えを中々受け入れられなかったのですが、いまはこの考えの価値が少しわかるようになりました。
その価値がすこしわかるようになったとは言え、僕の解釈は彼が伝えたかった真意とはズレているようにも思います。
「赦し」とは、言い換えれば「受容」に近いものだと思うのですが、ただ、その赦しというのは「何もせずに受けとめる」というのとは違うと僕は思います。
僕にとっての「赦し」のプロセスには「破壊」の工程が必要で、僕が「復讐」したいと思っている彼ら彼女らを赦すためには、彼ら彼女らを殺す(比喩ですよ)必要があるのです。
殺しながら受容するのです。
とはいえ、無闇矢鱈に「殺意」を剥き出しにして殺すような「下等生物」のようなことがしたいわけではありません。
慈しみの気持ちを持って殺し、赦したいのです。
「殺す」なんて言うと言葉が強いでしょうか。
「殺す」なんて言うと言い過ぎでしょうか。
言い過ぎな気もしなくはないですが、「人間」とは言っても誰しも部分的には「動物」ですから、自然の摂理として他者を「殺したい」と思う衝動を誰もが備えています。
僕はその「衝動」を無かったこと(抑圧)にすると、むしろその「衝動」に自分の意思が届かない場所で支配されるがゆえに危険だと思い、なるべくそういう「衝動」にも自覚的でいたいと思っています。
もちろん、そういう「衝動」を”剥き出し”にして生きることを肯定したいわけではありませんし、そんなことを無闇矢鱈に主張するような奴らがいたなら徹底的に抵抗すべきだと思っています。
無闇矢鱈に抑圧を解除すればいいと思っている浅薄な思考の甘ったれたガキみたいな奴らがいたなら、むしろそんな奴らから殺した方がいいと思っています。
状況をみて抑制すべきところは抑制する。
そういう一見弱々しくみえる人間の「善意」を、馬鹿みたいな論理で切り捨てようとする馬鹿みたいな「大声」には勇気を持って抵抗すべきです。
今の社会が抱える様々な問題に共通する問題点として、真正な善意を持った人たちが自分たちの真正さに自信が持てなくなって、相対主義も含めた馬鹿みたいな「大声」を前にして黙らされてしまうところがあると思います。
話がズレました。
ともかく、僕は人間の中に存在するそういった「衝動」にも何らかの「意味」があると思っています。
自分の中にある「衝動」を”魂の錬金術”によって「創造力」に転化し、場合によっては”彼ら彼女ら”を優しく殺すこと。
それは僕のような人間が引き受けられることでもあります。
この世に善人と悪人がいるのなら僕は残念ながら間違いなく後者で、善人にはきっとそんな仕事は引き受けられないでしょう。
そういうのは悪人の役割です。
また、いくら「役割」であるとはいえ、それを引き受けることはきっと”人間的に正しく”はないでしょう。
でも、別にいいのです。
もちろん、「人間が決めた正しさ」は不必要なものではありません。
それは社会を運営する上で必要とされるものです。
ただ、僕は正しさよりも「大切なもの」のために生きると決めているというだけの話です。
「正しさ」も大事にして社会との調和を図りつつ、いざとなったら大切なもののために自分の「道」を選ぶというだけの話です。