(5) ビー玉

 

 

  

おはようございます。

いま、新千歳空港にいます。

およそ半年ぶりの北海道です。

 

しばらく来ないだろうと思っていた「思い出の地」なのですが、なぜか今年もやってくることになりました。

軽井沢のローソンで「Sapporo黒ラベル」を眺めていると、なぜか北海道に”呼ばれた”気がしました。

Sapporoの黒ラベルに”呼びかけられ”て、ここまでやってきたような気がします(酔っ払ってませんよ!)。

 

また、いま空港のフードコートでおにぎり(イクラ)を食べながら窓の向こうの景色を眺めているのですが、なんだか「不思議な感覚」になりました。

窓の向こうに飛行機の発着場と空がみえるのですが、そこにある曇った空がこちらを歓迎するようにニヤニヤしている気がしたのです(酔っ払ってませんよ!ほんとに!)。

 

冗談はさておき、今日から登別の新しい職場でまた新しい生活を始めます。

何回「新生活」をすれば気が済むんだと自分でも思ったりするのですが、やっぱり「リスタート」の温度感はとても気持ちがいいものです。

まだハッキリしたことは決まってないのですが、あと半年ぐらいでこういう生活はいったん終わらせようと思っているので、残りの時間も目一杯楽しみたいです。

余裕があるわけじゃないのですが、時間の許す限り、これからまた始まる北海道生活でもたくさんの”ステキな景色”をみつけにいこうと思っています(はやく海がみたい!)。

 

かぎりある時、うつろう時のなかにある”たしかな景色”をつかんで、巡る季節を愉しみたいです。

巡る季節の彩りを感じながら、豊かな日々を歩んでいけたらなぁと思っています。

できれば、貴方と一緒に。

 

それでは、今日は”北の思い出”を支える空港から、この冬もたくさんの素敵な思い出ができるように祈ります。

貴方の笑顔溢れる日々を願いながら。

 

 

 

水平線の その先に

僕ら 何を見るだろう

What do you see?

君と二人 寄り添って

僕ら どこへでも行ける

Forever with you 

 

虹の彼方』 小瀬村晶,lasah

 

 

 

言葉にすると消えていくものがある。

でも「言葉にすると消えていくもの」なのに、それを言葉にしないと伝わらないことがある。

そういう「不思議な構造」について考えていた。

 

 

松江についたのは9月の雨の日だった。

岡山から出雲大社にむかう旅の途中で「寄り道」をすることにした。

青葉市子さんの『qp』というアルバムを聴きながら、松江の街を歩いていた。

細い雨が降っていた。

テリフリアメ』という曲が松江の雰囲気にとても似合っていて、何度か繰り返して聴いていた。

  

雨もふっていたし、陽も照っていた。

”天気雨”だったのだ。

やわらかい日差しが細い雨を照らしていた。

幻想的な光景がひろがっていた。

 

シャッター通りの隅に、「錆びついた自転車」がくたびれるように放置されていた。

タイヤの空気がぬけて、ハンドルがグニャッと曲がっていた。

ときどき透き通るような風が吹いていた。

細い雨が、うれしそうだった。

不思議な街だ。

 

「青葉市子って、なんかビートっぽい」と頭の中でつぶやいた。

そのつぶやきをそのままiPhoneのメモにうった。

そのままつづけて、「ビートニクっぽいけど、シャンとしてる。なんか不思議」と打った。

青葉さんのうたを聴いていると、”行ったことのない世界に懐かしさを感じる”ような、そんな気分になることがある。

 

何かをつよく”主張”しているわけではないけど、そこには芯のとおった「確かなもの」があって、それは外から何か言っても無駄だと思えるようなものだ。

何をいっても届かないようなところにそれはあって、でも、届かなくても確かにそこにあって。

確かにそこにあるから、届かなくても惹かれてしまうような、そういうもの。

青葉さんの曲の聴きながら、そういう感覚を思い出していた。

 

 

夕暮れが近づいていた。

細い雨がさらに細くなっていた。

釣り糸みたいに細くて、キラキラしていた。

 

細い糸のような雨の幻想的な気配を感じながら、宍道湖の方に向かって歩いた。

歩きながら、きのうの夜のことを思い出した。

ゲストハウスで知り合った女性との会話を思い返していた。

 

旅先で出会った人と話すと、どこかいつも以上に心が開放的になる。

はじめて会った人なのに、いや、はじめて会う人だからこそ開放的になれることがあって、旅先で人と出会うと普段は人に話さないことまで話したりする。

普通に生活していると避けては通れない人間関係の力学から自由になれるぶん、ふだん抑えているものが溢れてくる。

きのうの夜も、「精神的な事柄」について、普段の感覚からすれば”余計な話”と思えることまで話してしまった。

 

”余計な話”をしてしまったのに、その女性はすごく楽しそうに聴いてくれた。

トモコさんという三児の母であり旅人でもある面白い人だった。

トモコさんも僕に、”余計な話”をたくさんしてくれた。

 

トモコさんは、「普通」に生きることができない自分にコンプレックスを抱いて生きてきたみたいで、どうにかこうにか「普通」になろうと小さいころから努力したと言っていた。

ちいさい頃からどこか周りに馴染めない自分がいやで、そういう自分を変えるために「普通」になろうとしてがんばっていたけど、結局ダメだったみたいだ。

少しわかるような気がした。

 

けっきょく、「普通になる努力」は実らなかったみたいだ。

でも、トモコさんは、だからこそ今は幸せに生きることができていると言っていた。

今の旦那さんと出会って、その旦那さんが「きみは変わっているけど、それは貴方が特別だからだよ」と言ってくれたらしい。

そして、「きみの特別さは、”Strange”なんかじゃなくて”Special”なんだよ」と言ってくれたらしい。

今もいつもそう言ってトモコさんのことを受け止めてくれるらしい。

だからトモコさんは、「自分は自分でいていいんだ」と心から思えるようになったと言っていた。

ステキな話だった。

 

 

きのうの夜のトモコさんとの会話を思い出しながら、僕もいつかは「自分は自分でいていいんだ」と思えるようになるのだろうか、と考えていた。

いつも自分で自分を励ましているけど、でもやっぱり自分で自分を傷つけてしまうこともたくさんあって、なんでもかんでも自分ひとりで抱え込んでいくのには限界があるんじゃないかと感じていた。

トモコさんは旦那さんに助けられたと言っていたけど、きっとトモコさんが旦那さんのことを助けている部分があって、「自分以外の誰かに尽くした部分」をトモコさんは言葉にしてなかったけど、トモコさんの表情を見て、彼女はたぶん自分以外の誰かをちゃんと愛した人なんだろうと思った。

今の彼女のような人は、「人から受け取ったもの」に感謝してすごく大切にしているから、「自分が与えているもの」のことなんか忘れてるんじゃないかと思った。

 

 

「自分で自分を愛することも大事だけど、自分で自分を愛せるようになるためには、まずは自分以外の誰かを愛することだよ。」

この頃の僕には、そういうふうに助言を与えてくれる人がいた。

「自分を愛せない人間に自分以外の誰かを愛せるわけがない」と、その助言を突っぱねていた。

「この人は”愛”について知ったような口をきいているけど、本当に”愛”を知っている人はそんなこといちいち口にしないんじゃないか」と、何も知らないくせに聞く耳を持たずに突っぱねていた。

でも、いま思えば、あの助言をもっと真摯に受け止めるべきだったのだ。 

 

こういう話を正面から包み隠さずに伝えてくれる人は稀だ。

「愛」について他人に講釈を垂れるのは、どこか滑稽だ。

「愛」についてのアレコレは、言葉にするとどこか陳腐になってしまう。

何となくそういうことがわかっている人は、他人に愛についていちいち語ったりしない。

そういうことを他人に語ることは恥ずかしいことだと、いい意味で謙虚に思っている人ばかりだ。

 

でも、そういうことをちゃんと言葉にすることで伝わる「何か」もある。

言葉になった”愛に関するアレコレ”に触れることが「愛を知らない人間」が愛に近づく機会になることもある。

そういう「言葉」に触れることで深まっていく理解もある。

だから、”愛に関するアレコレ”は「言葉にしない方がいい」というわけではない。

 

トモコさんから暗々裏に伝わってきた旦那さんとトモコさんのあいだにある「愛」と、生意気な僕に助言をくださった方がハッキリ言葉にしていた「愛」に関するアレコレ。

 

「”愛に関するアレコレ”の伝え方」だけじゃなく、「”愛そのもの”の伝え方」にもきっと色々あって、いずれにせよ、とにかく相手の立場にたって、相手に合わせて伝えることが大事で、時にはストレートに語ることも大事なんだと思う。

今もまだよくわからないけど、「愛」をめぐる色んな話を聴きながら、なんとなくそう思った。

なんとなくそう思いながら、いつかは自分も相手に合わせて伝えられるような人間になりたいと思った。

 

 

宍道湖につく頃、細い糸のような雨も止んでいた。

湖面が太陽に映えていた。

夕暮れ時の湖面は、穏やかに揺らぎながら、きらきら光っていた。

湖のまわりには、ひとりで湖面を眺める白いワンピースをきた女性や、制服を着た高校生ぐらいのカップルがいた。

 

独りの女性はカメラを持っていた。

ファインダー越しに水平線の向こうに沈んでいく夕陽をみつめたり、カメラから目を離して、湖をぼーっと眺めたりしていた。

波の音にも耳を澄ましているみたいだった。

白いワンピースを着た彼女は、真摯に「何か」と向き合っているように見えた。

 

その傍らにいた若いカップルは、小さな声で周りに気を遣いつつ、たのしそうにはしゃいでいた。

二人とも「瓶のラムネ」を持っていて、それを太陽の方にむけながらスマホで写真を撮っていた。

瓶の中には「ビー玉」が入っていた。

そのビー玉が、”カランカラン”と鳴っていた。

楽しそうな音だった。

 

ビー玉の音は、しばらく鳴っていた。

きれいな夕焼けのなかで、鳴り響いていた。

水平線の向こうに落ちていく太陽が、とてもきれいだった。

 

ガラス同士がぶつかり合う”カランカラン”という音は、何かの始まりの合図みたいだった。

  

 

 

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