こんばんは。
突然ですが(2回目!)、いま、小説を書いています。
ずっと「書いてみたいな」と思っていて、でもだらだらして何もやらずじまいで過ごしていました。
そもそもこのブログは、小説のための告知の場というか報告の場というか、あるいは息抜きの場にしたいと思っていたのですが、書き始めると楽しくなってしまって、当初の執筆予定時間を大幅に上回ってしまうことばかりです。
いつものように「楽しいからいいや」とも思うのですが、それだといつまで経っても同じことばかり続けそうなので、「期限」を設けて、”未来の自分”のために行動を正していこうと思いました。
僕は貴重な時間をつかって文章を綴る。それを貴方が貴重な時間をつかって読んでくれる。
そのことを思うと、なんというか、胸がじんわりしてきたり、シャンとした気持ちになったりします。
まだまだ未熟で、陰に陽に拙いものばかり見せてしまうのですが、それでも時々自分でも「いいかも」と思えるものが書けたり、貴方に喜んでもらえるんじゃないかと思えるものが書けたりすると、この上ない歓びで満たされます。
だから、下手くそでも、恥ずかしくても、表現することを諦めずに続けることができています。
貴方のおかげで、豊かな日々を送ることができています。
改めて、いつもありがとうございます。
貴方の日々も、豊かに続いていくことを、今日も登別温泉の片隅から願っています。
繊細さと強靭さが同居するとき、その精神はきっと自他を回復に導く。
札幌の丸善ジュンク堂で、ハン・ガンの『引き出しに夕方をしまっておいた』とアニー・ディラードの『本を書く』を買った。
合計で3969円。
たったの3969円。
安すぎる。
ディラードの『本を書く』を買ったのは2回目で、前に買ったのはたしか4年前。渋谷の丸善ジュンク堂だった気がする。
同じ本を重複して購入することがある。
僕は本を買うときに「高い」と感じることがあまりない。
本ほど価値と価格が不均衡な商品は他にはほとんどない。
4年前に武蔵小山のタリーズでディラードの文章指南を読んだときの記憶が蘇ってきた。
選び抜かれた言葉の結晶。
どういう風に生きていればこんなものがつくれるのだろう。
彼女の文章から、彼女の人生そのものを想像した。
刃のような思考の足跡。
いや、これはちょっと違う。
品の良いセーターのような肌触りのある感覚。
これはすこし当たっている。ただ、その品のいいセーターの下には「ヒト」がいる。生の人間がいる。ホモ・サピエンス。野生を生きる生物の一種としての、人間。
「ものを書く」ことの隠喩でもあるかのよう、という須賀敦子さんの推薦文の出だしが帯に書いてあるのをみて、須賀さんの言葉が意図しているものは違う意味として受け取ってしまったけれど、ディラードの文章には「ものを書く」ことの地平に収めきれないような何かを感じる。
たったの1540円で、「ものを書く」ことを超えるような何かに触れることができる。
僕がいま生きている世界は、そういう場所だ。
繊細さと強靭さが同居しているような女性に惹かれることが多い。
軽井沢で出会った素敵な友人が教えてくれたハン・ガンもその一人だ。
これからテレビ塔の近くの喫茶店で彼女の詩を読む。
「回復」あるいは「再生」。
彼女たちがもたらしてくれるもの。
彼女たちが導いてくれる場所。
彼女たちが見せてくれる風景。
その風景の先にも、まだ見ぬ何かがある。