構え

 

 

 

こんばんは。

 

ぼくには長らく考えていることがあります。

それは「個」と「類」の問題です。

 

「個人」と「社会」と言い換えてもいいのですが、これを考えるとき、「個人”か”社会」で考えると行き詰まります。

「個人”も”社会」で考えると打破できるのかというと、そういうことでもありません。

「個人」と「社会」を一緒にしてしまうと、悲惨なイメージに向かうことが多いです。

 

「個人」と「社会」を一緒にしてしまうのではなく、「個人」と「社会」を分けてなおかつ”分けたまま同時に考える”というような感覚を持つと、考えが前に進むことが多いです。

「同じ」か「別」かではない感覚のまま進めていくと、意外な発見があったりするんですね。

この感覚に慣れてくると、世界にはまだまだ面白いものが沢山あると気付かされます。

 

  

   

 

 

 

今日の読書は高橋巌さんの『シュタイナーの社会論入門②「社会問題の核心」を読む』。

 

シュタイナーの社会論は社会の原則を3つに分けるといういうもの。

「精神」と「法」と「経済」の3つ。

 

「精神」を基盤にしてみていかないと、その先には破滅しかない。

シュタイナーの生きていた時代でももうすでに”ギリギリ”の状況で、シュタイナーの焦りのようなものが伝わってくる。

 

「ビジネス(≒経済)」という言葉にずっと違和感があって、それについてずっと考えていた。

問題の深層に届いていないような感覚がずっとあったけど、シュタイナーの社会論を読むと、「やっと出会えた」と思わせられるというか、「入り口」として確実なものを見つけられたような感触が得られる。

ただ、「入り口」として”確実”だという感触はあるのだけど、そこから先はやっぱり自分で試行錯誤するしかなくて、事前に「答え」があって、それをなぞっていけば確実に到達できるようなものではない、ということも痛感させられる。

 

シュタイナーを読んでいて感じるのは、未知なるものに向かっていく「構え」を教えてもらうことはできても、「答え」をみつけるのは自分自身しかいなくて、他人に縋っても何にもならないということ。

他人に縋っても何にもならないし、そこに厳しさもあるけど、同時に何より「他」を大事にする姿勢がそこにあって、だからこそ投げ出したくはないと思う。

 

魂の根源にある「他への意志」のようなもの。

それに応えてくれる思想。

大事にしたい。

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