2022.10.19
今日はファスティング2日目。
酵素ドリンクと梅干しと水で過ごすのに、そんなに抵抗がなくなった。
ファスティングをするのはこれが2回目で、前回やったのがたしか6月くらいだった。
だからだいたい4ヶ月ぶりだ。
健康に気を遣って生活をしている。
半日断食をしてみたり、糖質を制限してみたり。
そういう生活に価値を感じている。
感情の波が落ち着いて集中力が増したり、感覚が研ぎ澄まされて洞察力が深まったりしている。
だけど、なんというか、ほんとは全く意味のないことを馬鹿みたいにやり続けているだけなんじゃないかという「不安」みたいなものを感じている。
ボンヤリとした「迷い」みたいなものが、お香の煙みたいに自分の体の周りに揺蕩っている。
4ヶ月ぶりにファスティングをして、前回やったときと感覚が違うことに気づいた。
前回より「クリアな意識」で取り組めていて、自分の取り組みにも意味があるんだと実感できて嬉しかった。
この「実感」には4ヶ月ぶんの取り組みが濃縮されているような感じがある。
一瞬の短い感覚のなかに、長い期間の修練の成果がギュッと詰め込まれているような、そんな感じ。
健康に気をつかって生活していると、「こんなことやってなんになるんだろう」なんて考えてしまうことがある。
いまだに「健康」という言葉に抵抗がある。
けれど、自分の体で自分のやっていることの意味を実感できれば、その考えに対抗できるんだと思った。
いや、「対抗」というとちょっと言葉が強すぎる。
「対抗」といっても、迷いを一気に打ち消して無かったことにするという感じじゃなくて、迷いの中から新たな「意味」を抽出するような、そんなイメージ。
あくまでまだ迷っているのだけど、その中に一筋の光がある。
その光は、「ごまかし」とは反対方向に向かって差し込んでいる。
最近、「ごまかす」ことにすごく敏感になっていた気がする。
不安や迷いを感じたときに、それを打ち消してしまうことは誤魔化すことなんじゃないかと考えていた。
不安や迷いと共に生きていくことこそ、なんというか、生に対して「誠実」であることなんじゃないかと考えている。
だけど、頑なに「誤魔化し」を許容しないのは、「反対の意味での誤魔化し」というか、「誤魔化しへの執着」だとも感じていた。
心のなかに、ごまかすことへの抵抗感と、ごまかすことを打ち消すことへの抵抗感が同時に存在していた。
どっちに転んでも「良い方向」に向かっているとは感じなくて、だけどどこに行けばいいのかわからないような板挟みの感覚。
そこから抜け出すには「右か左か」の選択肢とは「別のもの」を見つけ出すしかない。
ただ、右にいったり左にいったりすることが、その「別のもの」を見つけ出すことにつながったりする。
不安と迷いのなかでウロウロしていると、「出口」が見えたりする。
暗い迷路のような洞窟に差し込んでくる一筋の光明。
光が見えたとき、そこでたじろいだりしないで、すぐにそこに向かっていけるかどうか。
それが鍵だ。
でも、そこでたじろいでしまうこともある。
誤魔化すことへの抵抗感が、”光を掴む”ことをたじろがせることがある。
たじろいでしまう自分。
尻込みしてしまう自分。
そういう自分と折り合いをつけるために、右に行った左に行ったりしていたのかもしれない。
ウロウロしながら、光を掴む準備をしていたのかもしれない。
このまえ地元の友人と浅草周りを観光したとき、隅田川沿いの歩道を歩きながら「体」の話をした。
というのも、その友人が「ボディーコンテスト」に出るためにこっちに来ていて、その日はコンテストの前日だった。
友人は最後の減量というか「仕上げ」の段階だった。
水抜きと塩抜きをしていた。
水も飲まないし塩も摂らないなんて、ファスティングの比じゃない。
本人は笑って話していたけど、本当はかなりしんどいだろう。
しんどそうだけど、なんだか溌剌としていた。
その溌剌とした姿をみて、「こいつも何かと闘っているんだなぁ」と思った。
小雨が降ったり止んだりしていた。
雨が降っている時は傘をさした。
雨が止んでいる時は傘を閉じた。
傘を片手に話をした。
傘越しに友達が地元の話をしてくれた。
ぼくはほとんど地元に帰ることがなくなって、良くも悪くも郷愁というか地元への執着心みたいなものが薄れていった。
いや、「薄れる」という言葉はちょっと”ごまかし”が入っている。
ただ、地元の捉え方が変わったのは確かだ。
友達の話を聞いていて、ずいぶん地元が遠くなったと感じた。
二人で歩きながら、途中で道を間違えた。
大通りから住宅街の方に踏み込んで、小さな狭い路地に進路が変わった。
話に熱中して、道を間違えたのだ。
狭い路地を歩きながら、「旅」の話をした。
旅で大切なのは「偶然」で、それは人生のどんなことにも言えて、その「偶然」と一緒に生きることが楽しいと友人が言っていた。
ぼくも、それはそうだと言った。
ここ最近ずっと「偶然」について考えていて、友人が同じようなことを感じながら生きていて、それがどこか不思議で面白かった。
偶然の話を、偶然一緒のタイミングで考えていた友人。
間違えて入った路地裏で偶然の話した時間は、いいものだった。
遠く離れた地元の存在が、どこか近くに感じられた。