東京都美術館の岡本太郎展に行こうと思って電車に乗っていたのだけど、その日は予約した日にちではなかった。スケジュールを間違えてしまった。中目黒駅から上野に向かう電車は、もうずいぶんと進んでいた。
どうしようかなぁとすこし考えて、田端の文士村記念館に行こうと思った。芥川龍之介に関わる文学館。
芥川龍之介という人はずっと気になる存在だ。「ただ、ぼんやりした不安がある」と言って、自殺した人。『侏儒の言葉/西方の人』というエッセイを読んだとき、「あっ、この感じわかるわ」と思った。
芥川の小説は、オーディブルの中に入っている全集をすこし齧って聴いてみた程度だ。ごちゃごちゃ考え事をしていて、あんまり集中せずに聴いたから、内容はあんまり覚えてない。でも、『蜜柑』とか、心地いい短編が結構あって、あの「心地」とエッセイなんかで垣間見える「分裂感」が併存してるのがいいなぁと思った。
田端駅についた。田端文士村記念館に行く前に、ちょっと「ひと作業」したいと思った。まずは「成城石井」に入って、軽食を買うことにした。トリュフのピスタチオとココナッツチョコレートを買った。そのあとスタバに行って、ユーズベリーティを窓側の席で飲んだ。
「ひと作業」を終えて、スタバを出ることにした。何かに「ひと区切り」つけると、安心する。区切りがないと、ずっと”ぼんやり”したままどこかへ沈んでしまいそうになる。
その日、記念館では萩原朔太郎の展示をしていた。こちらも気になる存在ではあるけれど、「今日はまぁいいや」と思って、芥川に関係するものだけみることにした。
芥川は田端のことを「画かき村」と読んでいた。芸大が近くにあって、美術をやっている人が多かったみたいだ。
”ぼんやり”していると、いい感じの景色が見えることがある。疲れ切って言葉で考えるのが面倒になって、視覚に頼るしかなくなるような感覚のとき、みえる「画」が変わってくる。
区切らない世界でみえる「画」と、区切って得られる「安心感」。安心しながらあの「画」を観ることはできないのだろうか。