大本

2022.12.23

 

 

 

12月になると森博嗣のクリームシリーズを読む。

毎年恒例だ。

今年は『積み木シンドローム』。

森さんのエッセイを読むと、頭が回る。

ふだんあんまり頭を使ってない証拠だ。

 

このシリーズを読むと、一年に「区切り」をつけるような心持ちが湧いてくる。

正月で区切るよりも、少し早めに区切る方が気持ちいい。

基本的には「多数派」の反対側にいる方が気持ちよく過ごせる。

 

この気持ちよさは、多数派のおかげだ。

少数派は多数派がいないと成り立たないから。

 

多数派の行動を、多数派から外れて眺めることは、多数派の恩恵に預かることなのかもしれない。

外れるから、気持ちよく過ごせる。

”外れる”ためには、外れるまえに「大本」がなくてはダメで、その「大本」がなければ”外れる”ことができない。

当たり前だけど、見落としがちなこと。

「外れる」という行為は、「大本」がなければ成り立たない。

 

ことしの冬至は、氷川神社に行こうと思っていた。

天気予報は雨だった。

このまえ、出雲大社に行ったときも雨だった。

大国主命が”浄化”してくれているのかもしれない。

 

冬至に行くのはやめて、日程をずらそうかと考えている。

クリスマスに行くのがいいんじゃないか。

クリスマスに神社なんて、なかなか乙だ。

 

このまえ、中西進さんの『キリストと大国主』という本を読んだ。

これがけっこう面白かった。

「人の心の普遍性」と「それぞれの場所が持つ風土性」。

そのふたつを同時に考えていくところが、いい思った。

 

実際に自分の足で場所に出向きながら、同時に自分の内側を見つめていく。

それが、大事だと思う。

 

自分の足で現場に出向く。

自分の足で歩いて、外の世界を旅をする。

外の世界を旅をしながら、自分の心と向き合う。

外の世界を旅して自分の心と向き合いながら、内なる旅もする。

「内」と「外」を同時に見ていく。

 

内なる世界と外なる世界には、つながりがある。

「心」と「場」は、通じ合っている。

「外」に向かうことで、「内」がわかってくる。

「外れ」ていくことで、「内」が見えてくる。

 

「外」の世界の「大本」は、「内」にあるのだろうか。

探求はつづく。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です