タイヤの擦れる音

2023.01.10 

 

 

檻のなかでくるくる回る栗鼠と、天球の回転。究極の悲惨と究極の偉大。

 労働の神秘(『重力と恩寵』) シモーヌ・ヴェイユ

 

 

 

夕刊がおわってタイムカードをおしたのは17時21分だった。

今日は気が萎えていた。

頭が回転しなかった。

 

配達の終盤、日が沈んでいくのをぼんやり眺めていた。

300メートルぐらい先の環七の向こうがわの西の空に夕焼け。

環七の方に向かって上がっていく二車線の坂道を、バイクで登った。

夕焼けの手前にある環七の幅広な道路。

帰宅ラッシュの車が右から左、左から右へと、規則的に流れていく。

車が奏でるリズム。

アスファルトにタイヤが擦れる音。

タイヤが回りながら地面という”直線”をなぞる。

車は都市の音符だ。

 

今日はミーティングの日だった。

月に一度、給料日前後の日に開催。

18時からはじまる。

18時までまだ時間があったので、バッグの中に放り込んでいたカメラを持って外に出た。

 

環七の夕焼けを撮ろうと思ったけど、もうほとんどオレンジ色が消えていた。

微かな残骸だけ拾い集めるみたいに、都立大側から自由が丘側にレンズを向けた。

すこしだけ光がみえた。

 

10分ぐらいで店に戻った。

食堂で本を読もうとおもったけど、所長がオンラインミーティングをしていたので断念。

事務所の端っこにある長机で残りの30分をつぶすことにした。

 

エリック・ホッファーの『大衆運動』と赤ペンを机のうえに置いた。

ヘッドホンをバッグから取り出してはめることにした。

ヘッドホンを手に持って耳に当てようとしたとき、事務所のなかの楽しげな声が耳に入ってきた。

動きをとめずにそのままイヤーパッドを耳に当てた。

グレーのイヤーパッドが、ふかふかしていた。

 

楽しげな声が、ヘッドホン越しにまだ聴こえてくる。

自分の口角もすこし上がっていた。

坂本龍一の『Merry Christmas, Mr. Lawrence』が流れてきて、楽しげな声のボリュームがすこし下がった。

けれどもまだ、「声にならない声」のように楽しげな声が聴こえてくる。

ピアノの音に重なって、背景のように聴こえてくる、声にならない声。

本を丁寧にひらいて、すこし指先に力をいれた。

30分が、あっという間に過ぎた。

 

時間ってなんなんだろう。

線のようなものなのか、円のようなものなのか。

その両方だったり、それ以外の何かだったりするのか。

ずっと考えてしまう。

 

終わりがあると思うと焦りも出るし、それと同時に、その瞬間を大切にしようとも思う。

いや、「焦り」というとちょっと大げさな感じがする。

ただ、焦ってヒリヒリしているわけではないけど、なにかに焦がれているような、なんだか切ない感覚が自分の内側から立ち昇ってくる。

その焦燥感のようなものは「気持ちいい」ものではないけれど、なにか大切なものを運んでくれている。

ヘッドホン越しの「楽しそうな声」を聴きながら、そう思った。

 

 

 

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