ともだちのお父さん

 

今日は昼から代官山にいった。寝不足で「体の調子がよくない」と思ったけれど、そもそも体の調子がいい日はほとんどない。

14時前に家をでて近所の「神乃珈琲」に向かった。きのうの時点では夕方までは家の中で作業をする予定だったけれど、起きたときに「このまま家にいたらダラダラ時間が過ぎるなぁ」と直感でわかったから、とりあえず「家を出よう」と思って、家の外で作業ができる場所を探そうと思った。

「人の目」がある場所に行くと、「ダラダラ時間がすぎる」のを軽減できる。「軽減」であって「消滅」ではないから、「ダラダラした感じ」は残っている。「ダラダラした感じ」が残りつつも、「シャキシャキした意識」が立ち昇ってきて、それが混ざってくる。

「神乃珈琲」に着いて中に入ったけれど、席が埋まっていた。待つのは嫌だったので、注文せずにすぐに外に出た。

外に出て歩いていると、「ダラダラした感じ」がずいぶん抜けてきた。近くのバス停からバスにのって代官山に行くことにした。目黒通りの歩道の淵にある「白いパイプの柵」のようなところに、スーツ姿の男の人がカバンを膝に乗せて座っていた。ぼくがいるバス停から5メートルぐらい離れているところ。この人もたぶんバスを待っている。立ったまま待つより、座って待つことを選んだらしい。いや、本当に「選んだ」のだろうか。

ぼくは立ってバスを待っていた。「座る」という選択肢が「白いパイプの柵」によって”与えられている”ということに気づかなかった。けれどスーツの男の人の座っている姿をみて、やっぱり立ったままで「正解」だと思った。

「正解」だと思ったのは、立っている状態が気持ちよかったから。座っている状態より立っている状態の方が気持ちいいだろうと想像したから。実際に座ってはいないけれど、想像で「わかった」と思った。

ゴミ収集車が目の前の車道を通った。運転席のとなりに二人の男。「前」に三人乗っていた。運転席と助手席とその「真ん中」の席。

一番隅っこの助手席のおじさんと目が合った。中学のときの友達のお父さんが、「いま目があったおじさん」と同じ仕事をしていたことを思い出した。その友達のお父さんとは一度も話したことがないし、だいたいその友達とも教室ですこし話をする程度の仲だった。だからなのか、その友達のお父さんの「顔」を思い出すことができなかった。けれど、そのお父さんの「何か」がぼくの記憶を通り過ぎていった。

昼間の目黒通り。目の前をたくさんの車が過ぎ去っていく。アスファルトの上に立ち、ときどき足元の自分のスニーカーを見たり、隣のスーツの男の人を見たりしながら、バスを待つ時間。この時間が好きだ。

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