2023.06.26
葉山港から鎌倉に戻った。帰りに七里ヶ浜に寄って夕日を見て帰ろうと思った。けれど、睡眠不足でエネルギーが切れそうだったので、まっすぐ宿にもどることにした。
ゲストハウスにもどると、受付にはラテン系の女の子がいた。全身にタトゥーが入った笑顔の柔らかい女の子。彼女に「Are you check in?」と言われた。
一瞬、どうやって答えるか迷った。やや沈黙があって、「あぁ、もう終わったよ!」と日本語で答えた。とっさに英語がでなかったので、身振り手振りと母国語での対応だった。
ほんのちょっとの英語と、チョーかんたんな日本語と、身振り手振りと表情での対応。手持ちの貧弱な表現道具で、その子と対話した。その子はスペインのセビリア出身だった。
ぼくはスペインという国に興味がある。だから、セビリアのことはよく知らなかったけど、この子との「ちょっとした出会い」に「ちょっとした縁」を感じた。
「ちょっとした縁」を感じて、セビリアのことが気になってきた。この先スペインに行く機会が訪れたらきっとセビリアに寄る。ぼくの「訪問先」はこんな”ちょっとしたこと”で決まったりする。
セビリアのことを色々と聴きたかったけれど、やっぱり英語力が乏しいからか、深いところまで話が掘れなかった。スペイン語なんてもってのほかだから、なおさら、「せめて英語だけでも」という気持ちになった。
単に情報としてセビリアのことを知りたければ、ネットで検索すれば済む。でも、この「ちょっとした出会い」で見聞きしたことの”体験的な記憶”と、ネットで”サクッと見聞きしたこと”では、決定的に「何か」が違う。
セビリアの女の子は、ぼくの学生時代の英会話のフィリピン人のセンセーにどこか似ていた。英語が得意というわけではなかったけれど、その英会話の授業は好きだった。話好きなのだ。
好きな授業だったから、そのセンセーのことはよく覚えていた。フィリピン人のセンセーと自分の母国語ではない英語で話すのが、新鮮な感覚で好きだった。
慣れ親しんでない言語で会話をすると、自分の中にある「新鮮な感覚」も一緒に出てきた。英会話の授業や街中で外国人と話しているときの楽しさは、その「新鮮な感覚」がもたらしている部分が大きいと思う。
その「新鮮な感覚」があると、自分自身に対して新鮮な気持ちになれるというか、「自分はこういう人間なんだ」という固定的なイメージも崩してくれるように思う。「自分を縛っているもの」が崩れていくから、どこか開放的な気分にもなる。
ふだんは当たり前に日本語を使っている。あまり深く考えなくても言葉が勝手に出てくる。そのとき、「言葉が勝手に出てくる」感じに嫌気がさすことがある。自分の気持ちと言葉が離れていて、自分に嘘をついているような感覚になって、嫌な気分になる。
その嫌な気分が深まると、踊ってばかりの国の『Twilight』をヘビーリピートしたりしながら、「言葉がすべてなくなったら…」と思ったりする。
まだ全然習得できてない英語だと、自分にとっての「シンプルな感覚」を表現することしかできない。「複雑な感情」など、当然、表現できない。
英語で話すときに出てくる、自分のなかの「新鮮な感覚」は、「シンプルな感覚」なんだと思った。
日本語で思考しているとき、自分の中の「複雑な感情」を、比較的複雑に操作できる日本語で表現しようとする。複雑に操作しようとすると、シンプルな感覚はどこかへ追いやられる。そのどこかへ追いやった感覚が、複雑な操作ができない英語の思考回路だと出てきやすくなるんだろう。
シンプルに考えるからこそ、シンプルな感覚が出てきやすくなる。当たり前だけど、そういうのって面白いなぁと思った。
そして、そういう”当たり前”を大事にしないと、大切な「何か」を見失うと思った。
シンプルな感覚で会話をしたあと、シャワーを浴びた。シャワーを浴びたあと、二段ベッドの下の段で寝る準備をした。
準備を整えて、読書ライトだけをつけた。扇風機やコンセント、物置になる壁に付けられた木板を見ていた。ほどよく整備が行き届いていた。”過剰なもてなし”はなく、「あると便利なもの」が程よく揃っているだけの、”フツーのもてなし”。
ベッドだけの狭い空間の、暖かい灯り。その暖かい灯りを頼りに『反解釈』の続きを読んでいた。なんだかここは「大人の秘密基地」みたいだと思った。子供心を忘れない大人のための、秘密基地。
『反解釈』のなかの『英雄としての文化人類学者』の批評を読んだ。レヴィ=ストロースの”スタイル”についての批評だ。この文章を読みながら、じぶんが影響を受けた人たちについて考えていた。
じぶんが影響を受け、憧れた人たち。彼らの大半は、人類学者っぽい「フィールドワーカー」だ。
数年前、吉福伸逸さんにものすごく影響を受けた。吉福さんが感じていた世界を自分もそのまま感じたいと思うぐらい影響を受けた。彼がセラピーをやっていたから、自分もセラピーをやりたいと思った。けれど、それはどこか違う気がしてやめた。
吉福さんは言葉を捨てていた。捨てていたというか、超えていた。
ぼくも「もう言葉はいいや」と思おうとした。でも、それはやっぱり違う気がした。
吉福さんみたいなセラピストにもとめられる「精神参与」を含みつつ、言葉を捨てない職業が人類学者のような「フィールドワーカー」の仕事らしい。
ぼくが影響を受けた人たちは、大抵の場合、”言葉を超えて”いるようにみえた。だけど、同時に、言葉を捨ててはいなかった。
彼らの言葉の裏には何か「秘密」があるような気がしていた。でも、それはちょっと違うといまは思う。
言葉の裏に秘密があるんじゃなくて、言葉そのものが秘密なのだ。秘密を隠しているのではなく、秘密そのものを示しているだけだ。彼らとて、秘密を知っているわけじゃない。
裏も表もその言葉の中につまっていて、それが何なのかはハッキリとはわからないのだ。
「秘密の教え」なんてものがあるわけではなく、「秘密の在処(ありか)」を教えているだけなのだ。
だからこそ、「みんなでその秘密について考えようじゃないか」と、彼らは言っているような気がする。
きっとぼくは、「宝探しの旅」に誘われていたのだ。
そして、気づいたときにはその「宝探しの旅」をする船にすでに乗っていた。
ワンピース。ひとかけら。
断片は、そこらへんにいくつも転がっていた。
ルフィもびっくりの展開である。